説教「神が養い装いたもう」
コヘレト3:1~11
ルカ12:22~34
新年礼拝(2016年1月3日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 1年最初の日曜日の礼拝で、きょう私たちが聴くみことばは、コヘレトの言葉、エフェソ書、そしてルカ福音書です。

 「何事にも時がある」。コヘレトは時について語ります。
 「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされる(エフェソ4章22~23)」。エフェソ書は新しく生きよと、呼びかけています。
 「思い悩むな。それよりも神の国をただ求めなさい」(ルカ12章29~31)。・・・去年のことは去年のこと、いつまでもこの世のことにくよくよしないで区切りをつけよう、主イエスはそのように告げています。
 いずれも新しい年を始めるにあたって選ばれたふさわしい聖句といえます。

 時代はいつも未来志向です。これからどういう時代になっていくのかを、みんなが考えています。年の初めというのは、ことのほか今年はどんな年になるのだろうか、と考えたくなります。いつの時代もそうですが、私たちは先々のことを気にしながら生きています。そういう傾向がどんどん強くなっているようにも思えます。2020年の東京オリンピック、消費税、地球温暖化。教会にあっても来年のこと、2017年の宗教改革500年記念が話題になっています。人々の会話、新聞報道、耳にする話題はいつもそうしたニュースにあふれています。ニュースに煽られているような感じもいたします。私たちはどうしていつも先読みすることばかり考えているのでしょうか。

 そのひとつの理由として、科学技術の進歩が先読みを可能にしているからではないかと思うのです。科学技術の進歩のおかげで、益々早くそして正しく先読みできるようになってきました。天気予報がその良い例です。明日の天気は非常に正確にそして詳しく知らせてくれます。より早くそしてより正確に予測することで、毎日の生活がより便利になりますから、この傾向はこれからももっともっと続くことでしょう。そして人より先に情報を得た人が競争社会を勝ち抜くのです。先読みして成功をもたらし、ますます未来志向になっていくようになると、そうした生き方がもてはやされて、あたかもそれが理想的な生き方であるかのように人の目に映るのです。もはや過去を振り返る時間はありません。ただ未来を見つめて、先読みするのみです。

 聖書の言葉に触れると、はたして本当にそれでいいのかと、ふと思わされるのです。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」と続きます。数千年前という聖書の時代の言葉ですが、この言葉はそのまま現代にも当てはまります。解釈など要りません。そのままですから。二一世紀でも人々が経験する、あるいは見聞きすることがらすべてが、この中に含まれています。こうしたひとつひとつの言葉のなかに、私たちの生活もすっぽり納まってしまいます。聖書の時代に比べると我々の文明は進歩したとか、人類は進化したとか言いますが、基本的に人間は変わっていない、同じことをやっているのだということを、この言葉によって教えられるのです。

 けれども聖書の時代と現代とではひとつ違うことがあります。それは、私たちの生活の中の泣き笑いの一コマ一コマが、神によって定められた時に起こったのだとコヘレトの言葉が告げていることです。さらにまた次のように言います、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、そうした時はすべて、「神が時宜にかなうように造っておられるのだ」と。人生の泣き笑いドラマは、それが神様が時宜に適って造っているのかもしれませんが、我々にしてみるとそれは予期せぬときに突如起こります。喜びのときとか笑いのときなら、それを神がお造りになった時なのだと受け入れるのは簡単です。けれども予期せぬときに嘆きが襲うと、「なぜこんなことになるのか」と、事柄から受ける衝撃に耐えかねてしまってうろたえてしまうのです。そして私たちは「なぜ」と自問自答して苦しむのです。苦しんで問いつつづけてもなかなか答えは出てこないので、受け入れられないのです。

 そのときコヘレトは教えます、「人が労苦してみたところで何になろう」。
 一見、開き直りというか達観した人生観がここにあります。たしかに労苦というのは、受け入れられないことを受け入れざるを得ないときに経験します。「やりたくないなあ」と思うとき、それでも明日までにしなければならない仕事の山を前にして、それをみるだけでどっと疲れがでて労苦するというのと同じです。「どうしてオレばかりがならないといけないのか」と、忙しいビジネスマンは自問自答します。上司に見込まれているのかもしれません。そう思えればまだいいですが、いつもそうとは限りません。

 こうした時に我々を襲う「どうして」という嘆きの問いに対する答えを、コヘレトは人間のうちに探したりはしません。なぜならそこに答えはないからです。コヘレトは、それを神のとき、カイロスといわれる神の時間のうちに答えを見出したのです。それが一一,一二節にあるみことばです。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」。それは神様のときカイロスに適っていることなのだというのがコヘレトの結論です。

 またコヘレトはもうひとこと、とても興味深い言葉を付け加えています。「永遠を思う心を人に与えられる」。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、 泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時」。こうしたとても具体的な時のことを今考えているのですが、永遠という言葉がここで飛び出してくるというのは、ちょっと唐突に感じられるのではないでしょうか。私たちが経験する具体的な時は、永遠の中ではなくて、すべて有限で限られた人生のうちに起こるからです。そこに突然永遠が飛び込んできたからです。

 永遠を思う心を神は人に与えたもうた。たしかにそうなのです。私たちは今のこの限りある時空から解き放たれた別次元を思う心を、たしかに神様からいただいたのです。心の内側から聞こえてくる永遠という次元は、決してただの空想の産物ではなくて、神のうちにある現実なのです。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時」、こうした具体的ないのちの断片も、神の永遠という次元の中にすっぽりと包まれているのです。ひとたび永遠へと思いをはせると、それらはすべて神様によって定められているのだというみことばが、私たちにぐっと迫ってくるのです。

 聖書に聴く、聖書に学ぶという生き方が、未来志向ではないことは明らかです。古の言葉に聴き従うことだからです。未来志向に染まってしまうと、過去に聞くということが愚かなことのように聞こえてしまいます。決してそのようなことはありません。先読みしながら生きていかねばならない時代だからこそ、過去から学ぶという姿勢がむしろ必要なのです。「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時」。それは聖書の時代もそして今も、等しく人間が経験させられているのです。全然変わっていないのです。人間のいのちは自分でこしらえたのではありません。これは神様から賜ったいのちです。神様と繋がっていてこそ初めて、人間は人間で有り続けるのです。だからこそ、聖書という古い古い神の言葉に聴き従うという生き方に、こだわりたいのです。未来志向に染まってしまわないためにも、私たちはずっと神の言葉にこだわるのです。

 イエスの言葉にも目を向けたいと思います。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」。思い悩むな、という呼びかけをしています。

 思い悩むなとは、どういうことでしょうか。思い悩むというのはわたしもしょっちゅうありますが、ひとつは、ああすればよかった、こういえばよかったと、済んでしまった過去のことをくよくよと思い悩むことがあります。もうひとつは、これから起こることを気にする、心配するという思い悩みです。きょうのイエスの言葉によく注目すると、ここでいう思い悩みとは、後者であることがわかります。何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかというのは、これからのことです。未来のことです。未来のことを思い悩むなと言っているのです。このことはとてもはっきりしています。

 そしてそう言い切れる理由もとても示されています。「神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」。神が養ってくださる。神が装ってくださるのです。このイエスの言葉は、さきほどのコヘレトの言葉、神が時宜にかなうように造ってくださる、と見事に結びついてくるのです。

 「信仰の薄いものたちよ」。このイエスの言葉も心に響いてきます。そうです、そのとおり私たちは信仰の薄い者です。強い篤い信仰があれば思い悩まなくてすむのですから。「神が養ってくださる。神が装ってくださる」。信仰の薄い私たちに、イエスはそう力強く語りかけています。この言葉を大切にして心にとめて、一年の歩みを始めましょう。