説教「成就した預言」
ルカ3:15~22
イザヤ:42:1~7
主の洗礼日(2016年1月10日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 きょうの主日の名前は主の洗礼日です。イエス・キリストが洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたときの様子が、きょうの福音書となっています。勘の鋭い方であれば、毎年これをこの時期に読んでいると気づくのではないかと思います。実際そのとおりなのです。クリスマスを毎年12月24日から25日にかけてお祝いし、年が明けて最初の日曜日には顕現主日がやってきます。そしてその次の日曜日が、顕現後の主日ですが、もうひとつの呼び名が主の洗礼日主日なのです。クリスマス、年が明けて顕現そして主の洗礼。これがこの時期の一連の流れなのです。

 教会の暦は一般にはクリスマスとかイースター、あとはせいぜいペンテコステぐらい。この三つのカタカナがよく知られている程度ですが、実はとてもとても複雑で、その全体像を頭に入れようとするとかなり大変なことです。世界に共通のひとつの教会暦があるわけではありません。いうなればばらばらなのです。カトリック教会、プロテスタント教会、東方教会がそれぞれ独自の暦を使っていたりします。プロテスタント教会のなかには、クリスマスとイースターを除けば、そうした伝統的な暦にまったく興味を持たないで、牧師が独自にその日の主日のテキストを選ぶというやり方もあります。それでもエキュメニズムという教会一致運動の影響で、同じ暦で礼拝しようではないかという動きがカトリックとプロテスタントの諸教会にはあって、共通聖書日課というのができています。私たちルーテル教会が現在使っている聖書日課も、基本的にはそれが基準となってできています。世界の教会がカトリック、プロテスタントを問わず、日曜日に同じ聖書箇所から礼拝できるというのは、教会がひとつなのだということを具体的に示すとてもよいことです。

 話を主の洗礼日に戻しましょう。クリスマス、顕現日、そして主の洗礼日。この一連の教会の暦は、大きくくくるならば、ひとまとめにとらえてしまってかまわないのです。なぜかといいますと、そもそもクリスマスと顕現日は、御子イエスがお生まれになり、神が肉体をとってこの世に現れ出でたということで、これはまさしく神様がこの世に顕現なさったということなのです。そしてイエスの洗礼という出来事は、これが本日の主題なのですが、ここで何が起こったのかを注意深く見ていきますと、これもまたクリスマスと顕現日と同じなんだということがわかると思います。ということでイエスの洗礼の出来事からきょうの神のみことばを聴いていきたいと思います。

 イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その洗礼は罪を悔い改めるための洗礼だったのです。イエスは神の子ですから、本来そのような洗礼はイエスには必要ありません。必要ないけれどもイエスは敢えて受けるのです。ヨハネ自身も、自分の洗礼とイエスがもたらす洗礼は違うのだということを自覚していました。ヨハネは言いました、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3章16節)。独特な表現ですが、このヨハネのことばの中に、ヨハネの洗礼とイエスの洗礼は違うのだということがよく表れています。

 けれどもイエスはヨハネの洗礼を引き継ぎます。するとそのときに特別なことが起こります。天からの啓示があったのです。聖霊が鳩のように降ったこと、そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえたのです。イエスが洗礼を受けたこと、それが神様のみこころにかなうことだったのです。他の福音書をみますと、ヨハネがイエスに洗礼を授けることを躊躇したことがでています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきです」。そういう言葉がマタイ福音書にあります。ヨハネも神の使者だったのですが、イエスが洗礼を受けるということに神様のみこころかあるとは、神の使者ヨハネさえも見抜けなかったのです。どんなに優れていても、どんなに洗練されていても、どれほど天才的であろうとも、人間の力と知恵をもってして、神のみこころを見抜くことはできません。そして神様のみこころはいつも正しいのです。

 聖霊と天の声という啓示的出来事が、イエスの洗礼をヨハネのそれと決定的に違うものとしたのです。キリスト教会が受け継いでいる洗礼というのは、いうまでもなくこのイエス・キリストに連なる洗礼です。洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼ではありません。キリスト教会が授ける洗礼は、イエスの洗礼です。聖霊が降り天の声が聞こえた洗礼です。ですから神様のみこころにかなった洗礼なのです。父と子と聖霊のみ名による洗礼なのです。

 洗礼を受けたイエスは、そのときどんなことを考えたでしょうか。聖霊が鳩のように降り、天の声を受け止めたときの感動はどんなだったことでしょう。クリスマスにはお二人が洗礼をお受けになりました。大人になってから、自らの意思で決心してイエス様を救い主として受け入れ、受洗をするという喜びは計り知れないものがあります。これまでの人生を振り返って、ここから新しく生きることができる、神様にこれからのことはすべてゆだねて生きていくことができる、そんな思いが洗礼を受けるとき、私たちにはよぎります。では、イエス様の場合はどうだったでしょうか。どんな思いがよぎったのでありましょうか。

 きっと私たちの場合とは違っていたと思うのです。神様のみこころにかなうという喜びもあったでしょうが、この神様のみこころの奥深さを思うと、そのような喜びはあっという間に消え去ってしまったのではないかと思うのです。なぜなら神様のみこころは、御子イエスがみこころに従ってその使命を果たすことだったからです。イエスにとっては喜びよりも大きな決意と覚悟のほうがはるかに大きかったと思うのです。

 イエスはこのときここで、神の召命を受けとったのでした。わたしはなぜ生まれてきたのか、なぜ洗礼を受けたのか、聖霊の鳩が降り、天の声が届いたのはどうしてか。こうしたすべての「なぜ」に対して、この瞬間、答えがひらめいたのです。「あなたはわたしの愛する子」「あなたはわたしの心に適う者」という天の声は、イエスを神の子として遣わすためでした。イエスは、神に選ばれ召し出されたのです。

 神とはいったい誰なのか、何なのか。どういう存在で、そのみこころが何なのか。旧約聖書に律法として神のみことばが記されていて、それを文字通り解釈して実行することが主のみこころだとファリサイ派はいうけれど、ほんとうにそうなのか。律法をあまりに窮屈に考えすぎてしまっていないか。こうした問いに答えを出すために、主イエスは肉をとって人となりました。このお方が、神の本性を、神のみこころを、体を張って示してくださったのです。そのために神から召され遣わされたのです。「わたしの心に適う者」、それはイエスを選び遣わした神の声、イエスへの召命だったのです。イエスはそれを受け入れました。

 きょうの旧約聖書の言葉はイザヤ書です。「主の僕の召命」と見出しがついています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。とても心に響く言葉です。この言葉の中に、一人の人物像を思い描くことができるほどです。救い主イエスの登場を預言したみことばとしても紹介されます。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。イエスを彷彿とさせる預言です。

 イエスが宣教活動を始めたときには、すでにイエスは安息日の礼拝で聖書を読み、説教を頼まれて話すことがあったようです。そのことを考えると、おそらくイエスは、このみことばを読んだことがあったでしょう。そしてこの言葉の意味を瞑想しながら深く考えたことでしょう。ただ、それが自分のことだと受け止めたかどうか、そこまではわかりません。けれども預言者イザヤは、確かに、救い主という人物像をこういう言葉で言いあらわしたのでした。こうして後の世を生きている私たちだけが、古い古いイザヤの預言とイエスの人物像を知っています。そしてこのふたつがぴったりと合っていると気づくことができるのです。

 イザヤの預言はさらに続きます。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた」(6節)。あなたを呼んだ、そしてあなたの手を取った。この言葉の中に、洗礼のときに起こったひとつひとつの出来事を見ることができます。イエスが洗礼を受けたとき、この預言が成就したということもできます。「諸国の光としてあなたを形づくった」。肉をとって人の形を取ったイエス、そして暗闇を照らす光として生まれたイエスを、この言葉から思い浮かべることができます。この預言の成就がクリスマスだということがわかります。

 冒頭に申し上げたこと、クリスマス、顕現、主の洗礼。この三つをひとくくりにということがおわかりいただけたでしょうか。ただわかったというだけでなく、イザヤの預言がイエスのうちに起こったのだということに驚きを覚えます。そして神が歴史の中でみこころをなしたもうという幸いを受けとるのです。