説教「盲人に習う」
ルカ18:31~43
四旬節第2主日(2016年2月21日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」。イエスさまは弟子たちにそう
言いました。31節をよく読むと、しかもわざわざ弟子たちを呼び寄せてこう言
っていることに気づきます。

 四旬節の第二主日に、きょうこうして礼拝を守っている私たちには、この時の
状況がおおよそ頭に入っているので、イエスがある大きな覚悟を決めてこれを言
ったということがわかります。けれども、そのときわざわざ呼び寄せられてこれ
を聞いた弟子たちには、そのようなこころの備えはまったくないなか、出し抜け
にこれを聞かされたのです。

 わざわざ呼び寄せてまで弟子たちにどうしても話しておきたかった話の中身は、
直後に続きます。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを
受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は
三日目に復活する」。十字架に架けられて殺されると弟子たちに打ち明けたので
す。

 お気づきの方もあるかと思いますが、主イエスは、おそらくここに至るまでに、
他でも同じような打ち明け話をしています。ルカ福音書だと9章にそれがありま
す。弟子たちに向かってイエスが、「君たちはわたしを何者だと思うか」と訪ね
たら、ペトロが進み出て、「あなたは神からのメシアです」と答える。するとイ
エスが、きょうの告白と同じ内容のことを弟子たちに打ち明けるのです。そして
そのとき、「これは誰にも言ってはならない」と口止めするのです。ですから弟
子たちがこの打ち明け話を聞かされたのは、きょうのこのときが最初ではなかっ
たのだとわかります。

 福音書はこう続きます、「十二人はこれらのことが何も分からなかった」。・
・・彼らはイエスの言葉が理解できなかったのです。何を言っているのか分から
なかったのです。同じことを二度聞いたにもかかわらずです。私たちにはおおよ
その見当がつくというのに、イエスといっしょに生活をして四六時中行動を共に
していた弟子たちにはそれができなかった。このことがきょうの福音書にあって
最も重要なポイントです。

 「私はエルサレムは行く」と、人がいうのを私たちが聞いたなら、ああこの人
はイスラエル旅行をするんだな、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘に立
つ教会へもきっと行くだろう、それに死海のほとりも観光するだろう、というふ
うに聞きます。

 「わたしはエルサレムへ行く」とイエスが言ったとき、それを弟子たちはどう
聞くかというと、たぶん、「ああ、先生は神殿に行って生け贄をささげて神様を
礼拝するんだ」、そんなふうに聞いたのではないかと思われます。信仰深いユダ
ヤ人であれば、それはごく普通のことです。

 けれどもこの一言と、そのあとに続くイエスの言葉が弟子たちにはまったくつ
ながりません。なぜエルサレムに行くことが侮辱され、つばをかけられ、鞭打た
れることなのか。すでに一度聞かされている弟子たちです。こんなショッキング
な言葉を忘れるはずはないでしょうから、この言葉を覚えているはずです。「先
生また言ってるよ」。イエスの二度目のこの言葉を聞いて、彼らは何と答えたら
よいのかわからず押し黙ったことでしょう。

 よくわからない、理解できない。そういう経験をわたしたちもしょっちゅうし
ます。初耳の言葉ばかりポンポン出てきて、難しくてわからないという場合だけ
でなく、文脈がつながらなくて理解できないことがあります。弟子たちの場合も
そうでした。

 エルサレムへ行くことと苦しみを受けることは、イエスの中ではつながってい
ます。聖書から聞いて知っている私たちにもつながっています。けれども間近に
いた弟子たちには、このふたつはつながっていなかったということです。

 確かに、言葉にはそういう一面があります。「パンとぶどう酒を用意しまし
た」、一般家庭の食卓でそう聞くと、それは食事の時間を意味します。けれども
教会で私が「パンとぶどう酒」というと、それは聖餐式を意味します。そしてそ
の違いを理解するのは、教会につながり聖餐式を経験している人です。聖餐式が
なんのことなのか知らない人が聞けば、「それって何のこと?」そう質問してき
ょとんとするだけです。言葉は、そのものを指し示しているようで、実はかなり
あやふや。私たちは普段からそうしたあやふやなやりとりをしているのです。そ
うしたことが度重なるうちに、やがて誤解が生まれます。ですから誤解が生まれ
るというのはおかしなことでもなんでもなく、当たり前のことというべきなのか
もしれません。大切なのは、起きてしまった誤解を丁寧にほどいていくことです。

 きょうの旧約聖書エレミヤ書をみると、預言者エレミヤもまた人々に多いに誤
解された人でした。エレミヤはエルサレム神殿が打ち破られると預言しました。
バビロンに攻め込まれて滅亡すると語ったのです。しかもエレミヤは、これは主
がなさることなのだという脈絡の中からこれを語ったのです。神殿を一生懸命守
る祭司たちにこんな言葉が理解できるはずもありません。そのときの反応は、
「わからない理解できない」ではすまされず、「あなたは死刑に処せられねばな
らない」ですから、エレミヤの発言を完全に抹殺しようとします。ここで起こっ
ているのは言葉の誤解というレベルよりも深刻度はもっと深くて、言葉の衝突で
す。これもまた社会の中でたびたび起きます。

 イエス一行はそういうわけでエルサレムへと向かいます。途中、エリコの町に
やってくると、そこで盲人の物乞いと出会います。耳だけを頼りに生きていたこ
の男は、まわりがざわついているのが聞こえてきて、「これは、いったい何事で
すか」と訪ねます。すると、うわさの男イエスが、今、目の前を通り抜けようと
していることに気づくのです。そこで男は大声で叫ぶことにしました。「ダビデ
の子イエスよ、わたしを憐れんでください」。「ダビデの子」、男はイエスをそ
う呼ぶのです。どこからそんな言い方が出てきたのでしょうか。イエスとユダの
王様ダビデがどうして男にとってむすびつくのか。周囲の人々がそう言っていた
ので、ただそれをまねただけかもしれません。とにかくこの男は、これまでイエ
スと会ったことも会話を交わしたこともない初対面だったはずです。関わりがま
ったくないところから、闇雲に「ダビデの子」とイエスを呼んで、「わたしを憐
れんでください」と叫んだのでした。そんな脈絡のつながらない盲人男性とイエ
スでした。

 けれどもこの男の言葉がイエスに届いたのです。イエスは立ち止まって、盲人
を呼びます。そして、「何をしてほしいのか」、「主よ、目が見えるようになり
たいのです」、そういう会話が起こるのです。たったこれだけです。「目が見え
るようになりたい」、それ以外にはありません。イエスにはそれ以上の言葉は、
ここでは必要なかったということです。この男がどういう素性なのか、どうして
目が見えなくなったのか、そうした会話がここにはありません。

 そしてイエスは言います、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救っ
た」。これもとても意外な言葉ではないでしょうか。なぜならイエスは、たった
これだけの言葉から、この男のうちに信仰をみつけたからです。「ダビデの子、
わたしを憐れんでください」。そして「主よ、目が見えるようになりたい」。そ
れだけです。それにもかかわらず、イエスはこの男に信仰を見出し、さらには目
が見えるという大きな恵みをお与えになったのです。

 いつも一緒にいる弟子たちは、イエスの言葉を理解できなかったのです。一方、
通りすがりの盲人が、一瞬でイエスが誰かわかったのです。そして癒されたので
す。このふたつのエピソードがとても対照的です。信仰に限らずなんでもそうで
すが、私たちは言葉を重んじて判断をします。たしかに言葉は大切です。けれど
も言葉はまた多いに人を誤解させるというのも事実です。

 信仰の世界は言葉では捉えられない、そのように言ったほうがむしろ正しいの
です。けれども難しく考える必要はまったくなくて、私たちはただこの盲人に習
えばよいのです。イエスが誰なのかを分かっているかどうか、そういうことは気
にせずに、ただイエスに対して、「主よ、目が見えるようになりたい」、そう叫
ぶだけでよいのです。私たちが正しいかどうかとか、人の過ちや無理解を咎めた
がる私たちですが、信仰は、そうした私たちの日常の多くを占めるやりとりとは
別次元にあります。「ダビデの子イエス、わたしを憐れんでください」。ただそ
う祈る。イエスとの向き合い方は、それでいいのです。そのとき「あなたの信仰
があなたを救った」というイエスの声が、私たちに届くのです。そして豊かな憐
れみがイエスから届くのです。