説教「復活の謎」
ヨハネ20:1~18
復活祭(2016年3月27日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
この世の中はわからないことだらけです。私がそんなこといっても、それはあ
なたが知らないだけと言われてしまいます。その一方で、世の中にはとことん調
べ尽くす研究者という人たちがいます。そういう人たちもまた同じことを言って
いるのを最近知りました。
行動生態学という分野があって、それを研究している長谷川寿一さんという人
がいます。人間が生態的に今後どうなっていくのかということを研究する人です
が、この人がこんなことを言っています。
「僕らは人間という生物を総合的に理解しようとしていますが、それはもうナ
ゾだらけですから、まだまだなにが出てくるかわからないし、そう簡単にわかる
ことじゃないと思っています。ジグソーパズルにたとえていうと、端々のピース
はわかってきて全体像が見えかけているのだけど、真ん中の中間領域がまだほと
んど埋まっていない」。
人間がこれからどうなっていくのか、科学的に研究する人がこの世はナゾだら
けだというのです。やっぱりわからないことだらけです。
イエスの復活という出来事もまた、そうしたナゾのひとつといえるでしょう。
きょうの福音書には復活にまつわるいくつかのエピソードがあります。
マグダラのマリアが墓に行ったら、墓穴を覆っていた大きな石の板がとりのけ
てあって、入り口を塞いでなかったのです。そして墓穴がぽっかりと空いていま
した。中にイエスの遺体はなかったのです。そのときマリアは、さぞ驚いたこと
と思います。
第一通報者のマグダラのマリアから知らせを受けて、すぐにペトロたちも走っ
てそれを確かめに行きます。墓の中の様子が描かれていて、亜麻布がふたつ、離
れ離れになっておいてあり、ひとつは丸めてありました。丸めてあったというこ
とは、ほどいた亜麻布を誰かが手でくるくるとまとめておいたということです。
墓の前で途方に暮れて立ち尽くすマリアのところに天使が近づきます。マリアは
それがだれとも知らず、言葉を交わします。けれどもマリアは、やがてそれがイ
エスだと気づいて「先生」と声をかけます。これがヨハネ福音書に出てくるイエ
ス復活にまつわるエピソードのあらましです。
これだけみても、やはりナゾだらけです。そもそも死んだ体が再び生き返るこ
とそのものが大きなナゾです。
ナゾはナゾです。よくわからないのです。なぜそうなったのか? どのように
してそういうことが起こったのか? なぜ大きくて重たい墓石が取りのけてあっ
たのか? なぜイエスの亡骸がそこになかったのか? なぜ亜麻布が丸めておい
てあったのか? よくわからないのです。そのすべての「何故」がナゾのまま、
ナゾにナゾが重なって、歴史上最大の謎として今も語り伝えられている出来事、
それが主イエスの復活なのです。私たちにとってイエスの復活は大きなナゾ、わ
からないことのひとつなのです。
けれどももうすこし踏み込んで考えてみたいのです。イエスの復活を謎といっ
ていいのかどうか、検討してみたいと思います。
謎と神秘
謎というとき、この言葉からみなさんはどういう印象を受けとるでしょうか。
わからないとか不明といった言い方もありますが、謎というとすこし不可解な怪
しさが漂ってこないでしょうか。そうです、みなさんがそう感じておられるよう
に、復活は怪しいのです。あり得ないことですから、怪しいのです。よくわから
ない謎なのです。
これとよく似たもうひとつの言葉に神秘というのがあります。こちらのほうは
ことばのニュアンスとして怪しげな感覚がもうすこし低く、特に宗教においては
好んで用いられます。なぜなら神秘は、文字通り神のわざ、神の不思議だからで
す。人間の為すことであれば、謎は謎でしかありません。何かの事件が起きて、
その背後を探ってみるとわからないことが多すぎるといった場合、事件は謎に包
まれていると言います。これは神秘とは言いません。人間社会の世をかき乱す出
来事とはっきり区別をつけるために、ここではっきりと、復活は謎ではなく神秘
だと言わなければなりません。
マリアの証
神秘に包まれた復活ですが、私たちにも納得しやすいよくわかる部分を拾い上
げると、マリアがいます。「マリアは墓の外に立って泣いていた」。11節にこ
う書いてあります。これはよくわかります。信頼し、愛し、慕っていたイエスが
十字架にかけられ殺されてしまった。せめてもと丁重に葬ろうと墓までやってき
たらイエスの遺体が見あたらない。
「マリアは墓の外に立って泣いていた」。マリアはこうするしかなかったので
す。時代は離れていても、葬式のやり方や習慣、文化は異なっていても、これは
ほんとうによくわかるのです。時代を問わず、民族を問わず、宗教を問わず、普
遍的にいつも有り続ける涙、悲しみ、苦悩、試練。それはまぎれもなく人間の真
実、人間の宿命です。マリアが墓の外に立って泣くのは、私たちにも手に取るよ
うによくわかるのです。
マリアはこのあと弟子たちのところへ帰っていって、こう言いました「わたし
は主を見ました」。感情の高ぶりもない、興奮した様子も感じられない、これだ
けだととても地味な言葉です。聞き漏らしそうです。
言葉には力があります。言葉の力は、どれだけ興奮して感情露わに大きな声で
話したかで決まるものではありません。小さくて静かでも地響きを起こすほどの
威力を秘めた言葉もあります。言葉が聞いた人の心にとどまり、やがて外へと広
がっていくとき、初めて言葉の力がわかります。言葉は人を動かすのです。そし
てやがて世界を動かすのです。
「わたしは主を見ました」。マリアのさりげないこの一言はそんな言葉でした。
「わたしは主を見ました」。聖書に記されたこの一行が、このあと人類の歴史を
大きく変えたのです。
復活の神秘
わかるかわからないか。理解できるかできないか。あり得るかあり得ないか。
復活についてそんな議論が繰り返し行われます。最近も「死者の復活」というタ
イトルの本が日本語に翻訳されました。これは欧米の神学者と科学者たちが共同
で書いた論考集で、神学と科学というまったく観点が異なる両者がなんとか議論
の橋渡しができないかと、イエスの復活について論じています。そうした高度に
知的な議論を積み重ねたとしても、イエスの復活の全貌が明らかになるわけでは
ありません。たとえ高度に知的な議論を尽くしても、復活の神秘の出来事を解く
鍵とはなりません。
この世の中はわからないことだらけです。わからないことだらけの中にたくさ
んの謎があります。そしてたくさんの謎の中には、神様の謎もあるのです。人間
には知る由もなく、人間が知ろうとすることすら愚かに思える神秘がこの世には
あるのです。神様の側に属する出来事が、この世界で時に輝くのです。
十字架に架けられた主のからだ、そして流された主の血潮。「これはわたしの
体である」といってイエスが取り上げたパン。「これはわたしの血である」とい
って酌み交わしたぶどう酒。「わたしを覚えてこのように行いなさい」とイエス
様はお命じになりました。すでにもうここに神秘が起きました。主イエスを信じ
る者は、この神秘のわざを、礼拝を通してずっと繰り返してきたのです。イエス
の復活も特別に考えることはありません。聖餐のパンとぶどう酒と同様に神秘な
のです。その出来事を通して神様が私たちに近づいてくれたのです。触れてくれ
たのです。
「わたしは主を見ました」。マグダラのマリアのこの一言は、きょう私たち自
身の言葉になりました。イースターのこの日、キリスト教の長い伝統をもつ教会
で交わす言葉があります。
Christ is risen. He is risen indeed!
キリストは復活したのです。このあと聖餐のパンとぶどう酒に共に与ります。
そこで神秘を体験します。そのとき、私たちも復活の主と出会うのです。