説教「平和の素は愛の粒」
ヨハネ14:23~29
復活後第5主日(2016年5月1日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 日本福音ルーテル教会は、今新しい礼拝式文を作ろうとしています。この式文のひとつの特徴は、礼拝の一番最後に「派遣」というセクションを設けたことです。神様の祝福をいただいて、私たちがここから遣わされていく、福音の証人として新しい一週間を生きる、この世へと向かう私たちを神様が派遣する、そういう意味があります。そこで司式が次のように宣言しましす。「行きましょう、主の平和のうちに」。それに対して会衆が「アーメン、私たちは行きます」と応えます。「主の平和のうちに」、このひとことが派遣に際してとても大切なキーワードになります。

 平和という言葉は、新約旧約を問わず聖書にはたくさん出てきます。旧約ならシャロームというヘブライ語、新約聖書ならエイレイネーというギリシャ語を訳した単語が、日本語で平和あるいは平安と訳されています。逆に、原典ではシャロームだったりエイレイネーとなっているのに、日本語訳では平和と訳されていないところもあります。別の訳になっているのです。シャロームは、今でも日常の挨拶を交わすとき使われています。つまり「こんにちは」と交わす挨拶として、ユダヤ人はシャロームというのです。

 もうひとつ例をあげるなら、サムエル記上にある出来事をあげたいと思います。気落ちして祈っているサムエルの母ハンナに対して、祭司のエリが言葉をかけます。新共同訳では、「安心して行きなさい」という訳になっています。原典をみるとこれが「シャローム」なんです。祭司からシャロームという言葉を受けとって、ハンナは送り出されるのです。やがてハンナはサムエルを授かることになります。本日のヨハネ福音書にも、二七節で「平和」が出てきます。ヨハネ福音書に登場する平和、エイレイネーは、これが最初です。

 愛と平和
 きょうの福音書には、もうひとつ見落とせない言葉があります。「愛する」という言葉です。23から24節にかけて、愛すること、愛されることについて、イエスは繰り返し語ります。父なる神様との関係、そしてイエスと弟子たちの関係について述べている部分です。そこで愛すること、愛されることを何度もいうのです。そしてそのすぐあとの27節に「平和」が出てきます。

 28節になると今度は再び「わたしを愛しているなら」といって、愛することをイエスはいうのです。平和そして愛、このふたつの概念はイエスにあっては、別々ではない、切り離すことができないのです。同じところから語るべきもの、愛も平和もふたつともその出所は同じなのです。いろんなところでいろんな人が示す愛、愛するということ、それをつなぎ合わせたものが平和である、そんなふうに言えると思います。

 熊本では地震災害のあと復興活動が始まりました。電気が灯った、水道が出るようになりました。ガスが復旧しました。新幹線が走り始めました。そんなニュースを聞くたびに嬉しくなります。そこで多くの人々が、たくさんの愛をこつこつと積み上げていっているのです。現地にまで行けない人は義援金を捧げたり、お祈りをしたり。これらはすべて愛です。愛の粒です。一粒一粒の愛をつなぎ合わせ、積み上げていって復興が起こるのだと思います。そうした地道な愛のわざが、やがて平和をもたらしてくれます。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。これが主イエスが語る平和の言葉です。ここで「残す」というのは、遺言という意味があります。自分はいなくなるけれど、その代わりに平和を残す、というのです。「残す」と訳されたギリシャ語ですが、きょうのところのほんのちょっと前、18節の「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」でも同じ単語が使われています。ただしここでは「残す」という訳にはなっていません。弟子たちに対して、あなたたちをみなしごにしたまま残して、この世を去ってはいかないよ、そう約束するのです。弟子たちに向かって、わたしはこの世をまもなく去るけれど、だからといってあなた方を寂しい思いには決してさせない。なぜなら、わたしの代わりに平和をあなた方のために残すから。これが主イエスの約束、最後の言葉、遺言なのです。

 教えることと思い起こすこと
 もうひとつ26節に注目すべきメッセージがあります。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ここでイエスは聖霊について語っています。弁護者なる聖霊が教えてくれる、ことごとく思い起こさせてくれる。それが聖霊の働きだというのです。イエスがこの世を去るというとき、聖霊を見落とすことはできません。

 もういちど繰り返します。教えてもらうということ、そして思い起こすということ。これができなくなると、生活にも支障を来たします。私はこのふたつをかなりの部分パソコンにやってもらっています。きょうすべきこと、今週中にすべきこと、それがパソコンのカレンダーに書き込んであって、期日が近づくとパソコンの画面にぱっと出てきて、「そろそろやり始めてください」と知らせくれます。これをリマインダーと言いますが、思い起こさせるという意味です。あるいはエンピツで手書きして、その日一日の「やることリスト」を作ったりします。終わったらひとつひとつ線を引いて消していく。きっと多くの皆さんがそんなふうにして仕事を片付けてらっしゃるのではないでしょうか。ようやくやり終えて、線を引いて消すときは実に気分がいいものです。

 けれどもイエスがここで言っている、聖霊が教える、聖霊が思い起こさせるというのはそういうことではありません。イエス自身のことです。イエスのことを教える。私たちの側からいうと、イエスについて聖霊から学ぶのです。そしてイエスの言葉、イエスのわざ、それらを思い起こさせてくれる、私たちの側からするとイエスについて思い出すのです。それをしてくれるのが聖霊だというのです。

 年齢とともにもの忘れは増えていきます。自分の経験からもそう思います。パソコンに頼ってばかりいると、益々覚えることをしなくなるなあという感じがしています。手で書くことが減りましたから、漢字も書けなくなります。思い起こせなくなります。繰り返し繰り返し教えてもらわないと、そのうちすっかり忘れてしまいそうです。

 イエスさまがここでふたつのこと、「教えること」と「思い起こすこと」のふたつを一緒に言っているという点が、私はとてもおもしろいと思うのです。教えられることで、思い起こせるからです。学ぶことで思い出すからです。聞くことによって、そうだったと気づくことができるからです。

 平和のかたち
 こうして日曜日ごとに教会にきて集まるということ。考えてみれば、ここでこのふたつをやっているのです。聖書のお話に耳を傾ける。そこでイエスさまと出会う。忘れてしまっていたけれど、こうして礼拝に来てみことばに教えてもらう、そこで、ああそうだったと、もう一度イエスのことを思い起こす。祈って、賛美して神様の素晴らしさに心向ける。このひとときがないとすると、私たちはほぼ間違いなくイエスさまの教えを忘れてしまうことでしょう。こうして礼拝に集うというのも、ですから聖霊がそうしてくれているということなのです。聖霊に導かれているから、私たちは教会に来ることができるのです。イエスを思い起こすということ。礼拝でするひとつひとつが、すべてそこに集中しています。

 さきほどの言葉、「わたしは、平和をあなたがたに残す」、そして「平和を与える」、さらには「みなしごにはしておかない」。これらのイエスの言葉を、この脈絡でとらえるとどうなるでしょうか。教えられ、思い起こすということ。イエスについて教わり、キリストのことを思い起こす。礼拝を通して、あるいは聖書の学びを通してそういう体験をする。そのすべては、イエスが私と共にいてくださるという体験なのだということが、ここから見えてきます。イエスの平和を受けとるという体験をしているのです。そのすがたは見えなくても、主イエスは生きておられるのです。私たちを離れてはいないのです。みなしごにはしないのです。シャロームが約束されているのです。

 このあと主の聖餐に与ります。きょうお話したことを、はっきりと目に見える形でイエスさまは残してくれました。それが聖餐です。「これをしなさい。そしてわたしを思い起こしなさい」。そう言いながらキリストが用意したパンとぶどう酒は、イエスが私たちに残してくれた平和のかたちなのです。