説教「イエスのへりくだり」
ルカ14:7~14
聖霊降臨後第15主日(2016年8月28日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今年読んでいる福音書はルカ福音書ですが、ここのところずっと読んでいるのはイエスの出来事というよりも、イエスが語った言葉そのものです。イエスにこういうことがあった、こんなことをしたという出来事ではなく、日常生活の様々な場面でイエスが語った言葉を私たちは聴き、そこからイエスがどういうものの見方をする人か、イエスが語る神さまってどういうお方か、イエスが描く神の国とはどんな世界なのか、そういったことについて教えてもらっています。きょうのところもやはりそうで、イエスの出来事というよりも、むしろイエスが語った言葉そのものが私たちにとても大きな意味を与えてくれています。

 話題は少し飛びますが、はたと立ち止まって宗教というのは何のためにあるのかということを考えてみたときに、多くの人が考えるのは次のようなことではないでしょうか。日頃は世俗にどっぷりと浸かってしまって汚れた心を少しでも清めたい、そうした思いから禅寺を訪ねて座禅を組む人がいます。そのとき心の中では、大げさにいうと、善と悪の葛藤があるかもしれません。きれいごとばかりいいながら、実際にやっていることといったらとてもほめられたものじゃない。おまえは言ってることとやってることが違うじゃないか、などと人を責めておきながら、ほんとうは自分もそうなのだとはたと気づいて、そのうちそういう自分がいやになり、こんな現実から逃れたい・・・。そう思ったとき、人は宗教に心が向きます。すなわち自分の脆さや破れに気づいたときです。聖書でいうところの悔い改めです。だめな自分、いい加減な自分、弱さ、脆さ、壊れやすさ、偽善。そうした言葉が段々と心の中を埋め尽くしていきます。聖書ではそういったダメな私のことをひとまとめにして、あまり聞こえは良くないのですが、罪人と呼びます。こころが折れるという言い方をよくしますが、こういう気持ちになりたい人などだれもいません。当然元気がなくなるし、なにをするにも嫌になってしまいます。

 そういうとき本人は確かにつらいと思うのですが、けれどもこの人にはひとつの気づきがあったのです。すべきことをできない自分、やってはいけないことをやってしまう自分がいる。自分は全然正しくなかったという気づきです。良心の呵責が働いたのです。当然そこでへこみます。へこむことはつらいことですが、この人がこうしたプロセスを経てへこむのは、いけないことでしょうか。こころが折れるのはいやですが、自分の過ちや弱さに気づくことはよくないことでしょうか。決してそうではありません。力強く生きることを求められる社会にあっては、こういうものの見方をマイナス思考といってあまり歓迎しません。けれども聖書的に考えるならば、これはとてもよいことなのです。

 リオのオリンピックでは一流選手の活躍に感動しましたが、金メダルを目指す人たちはマイナス思考をするとそれがプレッシャーになり、パフォーマンスに大きく影響するらしく、マイナス思考は絶対だめなようです。たしかに一発勝負に挑むときこれはだめでしょう。けれども人生という道のりは、一発勝負ではありません。曲がりくねった長い道を歩むわけです。こころが折れたり、へこんだりすることは絶対あります。にもかかわらずそこを無理やりポジティブに、プラス思考でやろうとすると、いい結果は出てきません。むしろそこから立ち直ることこそ大切です。ですからまず今の自分に気づくことは最初のステップでしょう。だめな自分に気づくことは良いことなのです。もっというなら、へこむことはよいことなのです。

 イエスさまは言いました、「宴会を催すときには、貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」。興味を引く言葉です。この言葉をそのまま文字通り解釈しようとするのは危険です。この言葉通りそのままやったらあなたは救われますよという意味ではありません。時にそういう読み方をしがちなので気をつけたいです。今は、パラリンピックという輝かしい舞台もある時代ですから、障がいが理由で生きる権利が奪われることはないはずなのですが、つい最近、障がい者を無差別に殺害するという愚かで卑劣な犯罪を一人の若者が犯しました。障がい者の人権に対して、あのようなおぞましいことを考える人間がいる現代というのは、イエスの時代から比べてもあまり進歩していないような気になります。

 イエスがこういう言葉を語るに至る過程を見ていく必要があります。冒頭の7節をみると、「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。そういう場面に出くわして、それを見たイエスが語った言葉だとわかります。ここで、招待を受けて上席に座る人は誰でしょうか。8節にもありますが、当然ながら身分の高い人です。聖書の脈絡で考えると、たとえばそれは祭司であったり律法学者ではないか、そういう想像がつきます。いろんな点で優遇された人たちです。イエスが宴会に招いたのはその正反対の人たちです。招かれざる人を招きなさいと教えるのです。今の言い方でいうなら、かれらこそ心が折れた人でした。へこみっぱなしの人でした。差別を受けて軽蔑されて、立ち上がれない人たちでした。

 罪を犯したとか、人に迷惑をかけたといった理由でへこんでいるわけではありません。なにも悪いことをしていないのに、存在そのものが否定されてへこんでいたのです。なんでオレはこの世に生まれてきたのだろう。そう感じながら生きていた人たちです。自分が罪人だと悟るより前に、人に「あなたは罪人だ」と名指しされて、そうかオレは罪人なんだと気づかされた人たちです。名指ししたのは身分の高い人でした。たとえば律法学者とか議員といった人たちでした。身分の高い高貴な人と身分の低い罪人というふたつの固まりがここに、イエスの前にいるのです。イエスは言いました、「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる」。この言葉はそのままこの両者にあてはまります。

 イエスの言葉を聞いて、たとえばきょうのみことばから、私たちは人をどう見るかということを教えられます。差別撤廃、人権擁護、そういう四字熟語を持ち出して社会問題を訴えることも教えられるでしょう。あるいはイエスの言葉によって心を入れ替えようと思うかも知れません。社会に貢献できる人間になるために、自分がもっとりっぱな考え方をもち善い人間になるために、イエスの言葉はある・・・。たしかにそういう見方もできますし、そうした教えをすることもキリスト教、ひいては宗教の大事な役割です。しかしながらそれらは付け足しでしかありません。

 イエスのことばを聴くうえでもっとも大事なことは、それを聴いて私が何をすべきかではありません。どういう考え方をもつかでもありません。イエスが言葉で語る神の国を知ることです。見ることです。そしてその神の国に、私たちが招かれているのです。貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たちと共に、私たちもこの宴に招かれているのです。

 イエスの言葉を聴いて、これからはもうすこしへりくだりと謙遜を身につけなければ。慎み深く生きよう。きょうの言葉から、そう思う方もいらっしゃるでしょう。すばらしいと思います。けれども、あなたがそういう人になるためにイエスがあなたを招いているわけでもないのです。

 ひとえに神の謙遜を見るためです。神の謙遜、ちょっと聞き慣れない言葉かもしれません。神様のへりくだり、それは歴史の中で起こった悲劇でした。「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。聖書に描かれたこのお姿、イエス・キリストの十字架こそ、神の謙遜、へりくだりです。このお姿のうちに、神様は御自身を顕されました。あの十字架の上に、主イエス・キリストは私たちへの愛を示して下さいました。