説教「聴く、気づく、変わる」
ルカ15:1~10
聖霊降臨後第17主日(2016年9月11日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 主イエス・キリストの言葉は、神の知恵であふれています。この知恵は神様の知恵です。わたしたちにはない知恵です。わたしたちにはないけれども、わたしたちはそれを受けとることができます。聴いて受けとることができます。聖書を読んで受けとることができます。受けとって、気づくことができます。そして気づかされることで、新たな発見があります。

 聖書を聴く、読む
 まずは聴くということです。知恵のことばを聴いて、それに触れる。これがわたしたちにとって、失ってはならない神様との向き合い方です。そのとき、どう聞くかです。アカデミックな世界でよく言われることですが、論文とか評論を聞いたり読むとき、いつも批判的であることが求められます。偉い先生が書いたものならば、そのまま正しいと考えがちになりますが、学問の世界では、なんでも鵜呑みにするようではだめなのです。

 では聖書を読むときはどう読めばいいのでしょうか。聖書も一冊の書物であることに変わりないので、もちろんだれでも読むことができます。そして聖書を批判的に読むことももちろんできます。教養のひとつとして聖書の言葉を聞くこともできるでしょう。

 そしてもちろん信仰者も、批判的に読むことができます。考古学とか歴史学とか人類学などといった、アカデミックな研究成果と照らし合わせながら読んでいくと、聖書にもいろいろと矛盾があることがわかります。神学というのもアカデミックな研究をする学問なので、牧師になる神学生たちは、そうした批判的に聖書を読むという訓練も受けます。いろんな矛盾に気づきながらも、そうした体験を踏まえて自分自身の信仰を再認識する。神学によって信仰を再認識して、次に自分の信仰を裏打ちしていくのです。そうすることで、まずは自分の信仰を強固にしていきます。ですから神学によって批判的に聖書を読むということは、牧師を志すものにとって欠かせないのです。

 今も言いましたように、信仰者であってもなくても批判的に聖書を読むことはできます。けれどもこのような読み方は、冒頭に申し上げたような読み方、すなわち神の知恵を聴くという読み方、そこから感化を受けるという読み方はできません。信仰的に読む、神の言葉と受け入れて読む、たとえそこに矛盾があったとしても、それを了解したうえで、豊かな神秘の知恵を受けとるには、神様にゆだねて御言葉を受けとっていきます。

 中途半端な自分の教養や知識はひとまず棚に上げて、わたしたちにはない、神様にしかない知恵を聞き取って行く。それが信仰的な読み方です。そういう読み方をすることで初めてわたしたちは、自分のうちにはない教えに気づかされるのです。聖書に書かれた文字や言葉が生きた言葉となるのです。それがわたしたちを生かすのです。突き動かすのです。日曜日の礼拝というひとときは、まさにそうしたためにあります。ここで自分自身を空っぽにして、神のみことばをそのまま受けとるのです。

 ふたつの同じたとえ
 きょうの福音書のみことばは、まさしくそんなみことばです。お話としてはとてもわかりやすいたとえ話がふたつです。ひとつは見失った羊のたとえ、もうひとつが無くした銀貨のたとえ。ここにはふたつありますが、イエス様が伝えようとしておられるメッセージは実際にはひとつだと、なんとなく分かるのではないでしょうか。100匹の中の1匹が迷子になったとすれば、99匹を野に残して、見失った1匹を見つけ出すまであなたは探さないだろうか。10枚持っているドラクメ銀貨のうちの1枚がどこかへ行ってしまった。そうなったら出てくるまで一生懸命あなたは探さないだろうか。同じひとつの問いが向けられました。

 ここでイエスの話を聴いているのはだれかというと、最初そこにいたのは徴税人や罪人ですが、そのあとでファリサイ派や律法学者がやってきて、イエスが罪人たちと交わり関わることを非難するのです。そうした状況から出てきた話が、このふたつのたとえ話です。罪人との交際を禁止するファリサイ派や律法学者に向かって、イエスはこの話を持ち出し、「あなたは見つけるまで一生懸命探さないだろうか」と語ったのです。

 「1匹の羊を、1枚の銀貨をあなたは探さないだろうか」と、わたしたち自身にも向けられていると思って聴いてみましょう。いろいろと想像を働かせながら聴くことができます。たとえば羊だとすると、野原に残しておいた99匹はどうなってしまうのか。探しているうちにばらばらになり、そのうちどこかへ行ってしまうのではないか。元も子もないないではないか。銀貨の場合は、銀貨が走って逃げてしまわないから、そういうことは考えなくてもよさそうだとか・・・。現実に照らして考えると、ついついいろいろと想像を働かせたくなります。さて、最初に申し上げたように、たとえ話の本質を逃さないためにも、99匹が逃げてしまうとか、年を取っているのでそんな元気ないから探したくても探せない、などという声はこの際考えないことにしましょう。おそらくイエスさまも、こまごまとしたことは考えないでこの話をしただろうと思います。

 1匹と1枚はだれか
 「あなたは探さないだろうか」。きっと皆さんも探そうとすると思います。大切な1匹です。大切な銀貨1枚です。いずれもとても価値があります。ドラクメ銀貨はギリシャの貨幣ですが、ローマの貨幣のデナリと同じく、ほぼ1日分の日当ですから、まとまったお金だといえます。

 ただこのたとえ話の中では、そうした価値の大きさの比較をしているのではありません。状況をもう一度おさらいすると、イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしているところへ、そういう人たちを相手にしない、見向きもしないファリサイ派や律法学者がやってきます。そこでイエスは彼らに向けてこのお話をしたのです。そうなるとここで「見失った1匹の羊、無くした1枚の銀貨」とはだれなのかを考えると、それはファリサイ派や律法学者ではない人、すなわち罪人や徴税人のことなのです。

 イエスの時代、罪人と言われた人たちがどういう人だったのか、どういう身なりでどんな性格をしていて、どんな言葉を話したか、生活ぶりはどうだったのか・・・。詳しいことまではわかりませんが、ファリサイ派というのは社会の中でも影響力をもつ立派できちんとした人でしたから、その対極にあるような人といえばいいでしょうか。

 先日バンコクへ行きましたが、バンコクには今でも路上で物乞いをする人たちがけっこうな数がいました。繁華街の幹線道路沿いの歩道を行き交う大勢の人々を見上げながら、空き缶を置いて座っている男性、女性、こどもがいました。日本でも、行くところへ行けば同じです。路上生活を余儀なくされている人たちがたくさん住まう街もあります。きちんとした身なりとは言いがたい人たちです。そういう人たちこそ、今イエスがここで言っている見失った羊なのです。イエスという人は、そうした人たちと一緒に食事をすることを心から喜べた人だったのです。しなければならないからするのではない。やれと言われたからやるのでもない。イエスはその人たちといることを共に喜べた人だったのです。教会に来るわたしたちというのは、みなきちんとした人です。そういうわたしたちにとってこれはそういう人を受け入れることは、たやすくありません。そういう意味でわたしたちは、イエスさまから言わせるならば、ファリサイ人なのです。

 みことばに気づく
 教会は、山谷とか釜ヶ崎といった町の路上生活者への支援活動を、小さいけれども続けています。教会がそういう支援活動をするのは、今日のようなイエスのことばを聴いて、それに気づかされ押し出されたからです。わたしたちにはない神の知恵を、イエスから受けとることができたからです。みことばによって、それが尊い働きなんだと気づかされたからです。イエスのことばがわたしたちを変えそして社会を変えたという現実を、最もはっきりと認めることができる現場が、あそこにあるといって良いでしょう。

 イエスのみことばは確かにわたしたちを変えてきました。神の知恵が社会を変えるのです。
政治的な変革ではありません。人間社会の現場の節々で、神の国はこうなんだよと垣間見せる、というやり方で変えるのです。見失った1匹の羊を迎え入れる、そしてそのことを共に喜ぶ、それができたとき、そこには確かに神の国が広がっているのです。