説教「聴く、気づく、変わる」
ルカ18:1~8
聖霊降臨後第22主日(2016年10月16日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 それにしてもなんともユニークなたとえです。けれどもイエスらしいとも言えるのです。

 世間的な感覚で言いますと、祈りというと馴染みがなく、聖なるもので日常からかけ離れたとっつきにくいもの、そんなふうに見られがちです。

 ところがイエスが語る祈りについてのたとえというのは、日常からかけ離れていないのです。別の言い方をすればとても俗っぽいのです。祈りとは何かを語ろうとすれば、普通はこういう話をしないでしょう。こういう話し方をする人は祈りをあまり大切にしない人、祈りをいい加減に考える人です。

 ところがイエスはそうではありませんでした。イエスは誰よりも祈る人でした。そしてこれは、俗っぽいたとえ話なのですが、気を落とさずに絶えず祈れというとても教訓的な教えなのです。改めて祈りとは何かを考えさせられます。

 自分へ向かう瞑想
 近頃、瞑想とかカタカナ言葉でマインドフルネスが評判で、これが健康にとても良いと話題になっています。企業でも休憩時に積極的にマインドフルネスを行って仕事により集中できるようになっているそうです。これによって脳の働きが活性化するということが、科学的にわかってきたからだそうです。

 祈りも瞑想も表向きには、やることといえば基本的にはそんなに違いはありません。目を閉じて、心を静めます。そして雑念を追い払います。けれども似ているのはそこまでです。やはり祈りと瞑想は違うと言わざるを得ません。違うというよりも、瞑想とかマインドフルネスは、祈りのひとつの要素、ひとつの形、あり方です。瞑想は祈りの一部というべきものです。

 目を閉じて心を静める。そして雑念を追い払う。そこまでは一緒ですが、瞑想とかマインドフルネスだと、雑念を追い払うために呼吸に集中します。呼吸を意識します。これは、呼吸をしている自分を意識するということです。そして、疲れている脳がもうちょっと元気になるようにと、密かに願います。ですから瞑想は、あくまでも自分自身のための行為、自分のほうに向いているということになります。

 神に向かう祈り
 ベネディクト会という修道会の創設者聖ベネディクトは6世紀の人ですが、彼の有名な言葉に「祈れ、そして働け」というのがあります。祈ること、そして働くこと。彼はこの二つの大切さを短い一言で教えました。そこからカトリック教会の修道会が誕生していきましたが、考えてみればこの二つ、祈ることと働くことは、イエス様の生き方そのものなのです。

 二つの教えから修道会が誕生していったと言いましたが、カトリック修道会は、市ヶ谷界隈にもいくつかあります。最も近いのがお隣の援助修道会、そして四谷のほうにいくと上智大学を生み出したイエズス会、聖パウロ修道会、幼きイエス会など、たくさんあります。大きく分けると二つあって、一つが祈りを中心とする観想修道会、もう一つが社会の中で働くことを中心とする活動修道会です。お隣の援助修道会は活動修道会。祈りの修道会はといえば、上野毛にあるカルメル会とか北海道のクッキーで有名なトラピスト修道会が有名です。修道会が2種類あるということは、祈ることと働くことは、両方とも同じレベルで大切だということです。両方とも大切なのですが、二つともに専念するのはとても難しいために、二つになったわけです。

 祈ることと働くこと、これら二つはいずれも神様に向かうのです。祈りも労働も、神様のためになす業であって、自分の為ではないのです。ここが大切な点です。

 働くことが尊いことであるというのは、誰もがそう思うでしょう。では働きがどこに向かうのかという点について、考えたことがあるでしょうか。あなたは誰の為に働きますか?と聞かれたらどう答えるでしょうか。自分の為?会社の為?あんまり会社の為にとは言いたくありませんけれど、実際のところそうなっています。会社の為に働いているという意識が強いですから、働き過ぎて過労死ということが起こってしまうのです。多くの人は自分、そして家族の為に働く。そう思っているのではないでしょうか。

 さきほど言った「祈れ、かつ働け」という教えに立つならば、働くことは神の為ということになります。働くことが神の為というのは、ちょっと立ち止まって考えてみないとわかりづらいのですが、祈りが神の為というのは、理解しやすいと思います。普通、祈りをそのように理解しているからです。そこへきて今日のイエス様のたとえは、そういう我々の考え方を大いに揺さぶるのです。

 イエスのたとえをもう少し掘り下げてみていく必要があります。神を畏れず人を人とも思わない裁判官です。神を信じていないとは書いていませんが、神様を無視しているということですから、信じていないのとさほど違いません。さらに人を人とも思わないのですから、この裁判官は自分のことしか考えていないのです。自分の私利私欲のために生きている人物を、イエス様は祈りのたとえにもってきたのです。なぜでしょうか。

 「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」。裁判官は、やもめがあまりにもしつこくてうっとうしくなったのです。いかにも自己中の裁判官です。

 気を落とさずに祈れ
 気を落とさずに絶えず祈れと、イエス様は教えました。このたとえ話に調子を合わせた言葉づかいでいうならば、これは「諦めずにしつこくせがめ」という感じです。言葉は俗っぽいですが、それが祈りの本質なのだとイエスは教えるのです。いわばこれは最悪の祈りの一例ともいえます。最悪でもこうなると、イエスは言っています。そしてイエス様はこう続けます。「まして神は」。・・・最悪でも聞いてもらえるのだから、最善なる神様が、昼も夜も叫び求める人々のお願いを聞かないはずがないではないか。これがイエス様の論法です。当時のユダヤ人たちがよく使ったロジックを、イエスも使ってお話したのです。

 今日の旧約聖書の出来事も福音書と深く関わっています。ヤコブが何者かと夜明けまで格闘したというお話です。「わたしを祝福してくれるまでは離しません」。ヤコブはそう言って、気を落とさずに執拗に何者かととっくみあいをし、とうとう祝福を勝ち取るのです。何者かはわからなかったのですが、その相手から祝福をもらおうとしていたのですから、ヤコブにはそれが誰だかわかっていたはず。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」。そういってヤコブはその場所をペヌエル(神の顔)と名付けます。この話は、自己中心な裁判官のたとえのように飛躍していませんので、神様にとことん粘って求めなさいという、同じ内容の教えとして、とてもわかりやすいといえます。

 イエスの祈り
 目を閉じて心を静める。そして神様に心を向ける。祈ることは目立たず、とても地味です。イエス様は目立った祈りはしませんでした。声を張り上げて祈るのはファリサイ派の祈りだと言って、イエス様はそういう大げさな祈りをしませんでした。むしろ一人だけで山にこもって、誰もいないところで祈ったのです。そして気を落とさずに絶えず祈ったのです。

 実際、イエスは祈りについてとても強気な考え方をしています。マルコ福音書では、「祈ったら、もうすでに叶えられたと信じなさい」(11章24節)という言葉を残しています。祈りに揺るぎない自信があるから、このように言えます。祈りに自信を持っているということは、祈りが何かをイエス様にはよくわかっていたということです。祈りが神様とつながる手段であることを、誰よりもわかっていたのです。

 祈りとは何か。瞑想やマインドフルネスのように、自分の体調維持管理のためではありません。祈りは、神様との交わりのためで、祈りは神様に向かうのです。祈ることで気分がすっきりした、健康になった。これもあるでしょう。祈ったことで、オキシトシンという脳内物質が分泌されたため気分がよくなるのだそうです。それで祈ると幸せになったような気がする・・。そのように脳科学者は解説するのです。科学的に説明してもらうと、とてもわかりやすく納得するわたしたちです。納得して、祈りとは結局そういうことなんだ・・・つまり祈りとは、脳内物質の分泌をよくするという物理的な現象を引き起こすことなんだ・・・これは自分の体の中で起きている化学的変化なんだ・・・そう結論づけてしまいたくなります。けれども科学が語る祈りは、ここまでです。なぜならその後に出てくる神様を持ち出したら、それはもう科学にならないからです。

 もう一度言います。祈りは自己に向かいません。神に向かうのです。自分の体の中の化学変化でもありません。

 祈りについてのイエス様の自信、「気を落とさずに絶えず祈りなさい」、「もうすでに叶えられたと信じなさい」。イエス様のこうした強気の言葉は、ただ単に祈りが大切だというだけでなく、祈る先には神様がおられるという揺るぎないメッセージがここにあるのです。

 確かに、わたしたちは祈りを過小評価しがちです。目立たないだけにそうなりやすいのです。一方、働くことは過小評価はしません。それどころか過大評価してしまうほどです。とても目立つからです。イエス様は、神のために熱心に働きました。そして気を落とさずに神様に祈りました。祈ることと働くこと、Ora et labora。ふたつは等しく神様に向かうのです。