説教「世を去るということ」
ヨハネ16:25~33
全聖徒主日(2016年11月6日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 命とは何か。生きるとはどういうことか。この問いを人間はし続けています。いつの時代もずっと問い続けているけれど、全ての人間を納得させる答えは、まだ見つかっていません。きっとこれからも問い続けるのでしょう。

 命とは何か。生きるとはどういうことか。これに対する考え方として、私には二つが思い浮かびます。単純化して一言でいうなら、ひとつは、生きるとは生き延びることです。サバイバルです。そしてもうひとつは、生きるとは死ぬことです。紛らわしい言い方なのですが、突き詰めるとそういうことだと思っています。生きるとはサバイバルだという考え方は、遺伝学的な考え方です。生物学的な考え方です。そうした生命科学からみると、人間は進化しながら世代を嗣いで、いつまでも生き続けようとする生き物です。生き続ける限り命はあるけれど、命が終わって死ねば、そこで命は終わるのだといいます。ですから生命科学、遺伝学では、死んだ後のことは考える必要はないのです。考えることに、そもそも意味はないのです。

 これと似たもうひとつの問いをしたいと思います。それは、なぜ私は生きているのだろう、なぜ私はこの世に生を受けたのだろう、という問いです。すなわち私が生きている理由です。私が生きている理由と、私の隣りの人が生きている理由は、違うのでしょうか。それとも同じなのでしょうか。生きている理由は人によって皆それぞれ違うのでしょうか。それとも同じなのでしょうか。

 これについても考え方が二つあると思います。同じく簡単にして一言でいうなら、ひとつは、私が生きている理由は特にない、というものです。たまたま偶然に生きているだけという答えです。そしてもうひとつの考え方は、私に命を与えた大本があって、その大本から命をいただいたから生きているという考え方です。偶然ではなく運命だということです。聖書は、その大本のことを神と呼んでいるのです。生きることには意味がある、それが聖書に基づいた考え方です。

 今日は召天者たちを覚える全聖徒主日です。地上での命を全うされた一人ひとりを覚えています。言い換えると、死ぬことを成し遂げられた方々です。私たちはこうして写真を並べて、一人ひとりが生きていた時のことを思い起こしながら、彼らとつながろうとしているのです。最初の問いでみたように、もしも命が地上の生涯だけで全てが終わるのだとしたら、彼らとつながろうとすることは、まったく無意味でやっても無駄なことなのです。召天者を偲んで、神様に祈りを捧げても空しいだけです。

 それは現代を生きる私たちだけの話ではなくて、イエス・キリストが生きていた時代でも同じでした。「キリストがもし復活しなかったとしたら」という仮定で、パウロが書いている言葉を思い出します。

 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。さらに、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます」(コリントの信徒への手紙一 15章14節)。このようにパウロは言っています。

 召天された方々がこの世を去ったあと、どうなったのか。今どうしているのか。こうして写真を見ながらいると、ふとそんなことを思います。死で全てが終わるのならば、パウロが言うように、そういうことを思うことさえも無意味になってしまいます。

 今日の福音書でイエスは次のように言いました、「 私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」。

 主イエスは死ぬことをここで「世を去る」という言い方をしています。このイエスの言葉からは、死が全ての終わりだという見方はありません。こっちからあっちへ移ることだというのです。そしてそのあっちというのは、「父のもとへ行く」ことなのです。また、主イエスはここで、「私は父のもとから出て、世に来た」とも言っていますから、さきほどのもう一つの問い、なぜ私は生きているのか、に対して、それは大本から命をいただいたからだという言い方をしましたが、その大本のことをイエスは「父」と呼んでいるわけです。そうすると、私たちが亡くなった人たちとのつながりを意識して、それを保とうとするという行い(きょうの礼拝がそれ)の態度は、イエスと同じだということなのです

 さらにイエスは次のように言っています。16章7節「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたの為になる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」。これは今日の福音書の少し前に書いてあります。私が去って行くことは、あなたがたの為。私が死ぬことはあなたがたにとって為になる、ということをイエスが言っているのです。イエスの死には大きな意義があるということを言い残していったのです。死で全てが終わる。死は全てを無にする。科学の言葉にすっかり飼い慣らされてしまっている私たち。科学の言葉でばかり考えていると、自然とこういうものの見方が強くなります。実際、この世にいる限りそのようにしか見えないので、死は全てを無にするのかもしれないと思えてくるわけですが、イエスの言葉では、イエスの死が私たちの為という。死になんらかの大きな意味があるのです。この言葉は、絶望しかなかったところに大きな希望をもたらしているのです。

 そしてイエスの死の意味というのは、先ほどの聖書の言葉ならば「弁護者」。すなわち聖霊がその後にあなたがたに届けられる、ということだったのです。

 ヘンリ・ナウエンは、次のように言いました、「イエスと同じように、私たちが去りゆくとき、友人たちに愛の霊を送ることができます」。何気ない言葉ですが、とても深い一言です。私たちがこの世を去るときもイエスと同じで、私たちの死もまた「だれかの為になる」ということです。

 なぜかといえば、そのとき遺された家族や友人、教会の仲間たちに愛の霊を送ることができるからだというのです。この言葉を召天された方々に当てはめてみたいと思います。この方々が、私たちに愛の霊を送ってくれたのです。

 ナウエンは、さらにこんなふうに言っています、「私たちの霊は、私たちが残していく愛であり、神の霊の奥深くにあります」。召天された方々が世を去ったとき、その後送ってくれたもの、それは愛という形をとった霊だといいます。

 そのように考えていく時、ここでようやく少し見えてくるものがあります。霊というとわかりづらいのですが、その正体が愛のことだとすれば、私たちにも五感を通じて伝わってくるのです。そしてこの方たちから私たちも愛を受けとったのです。イエスが語ったとおりに、その死によって、今生きている私たちの為になるものが届けられたのです。この世には愛と呼ばれる、もうひとつの不思議な力が働いているのです。霊の力が働いているのです。

 最後に、二つ目の質問、なぜ私は生きているのだろうという問いの答えを考えてみたいと思います。命を与えられて、こうして生きている私たちですが、そもそもそんなことを何も考えなくてもいいのです。なぜ生きているのかといった哲学的な問題意識など持つ必要はありません。それよりもここに愛があること、愛が生きていること、その愛を受けとって、愛を知る、愛を感じる。それによって、私たちがなぜ生きているかが分かります。愛を働かすためです。愛を受け取り、愛を与えるために、私たちはこうしてこの世にいるのです。それが、神様が私たちそれぞれに命を授けた理由です。

 愛というのは、この世における神の姿です。神様の形です。それをこの地上で活かし、働かせる為に、愛を経験して神様がどういう方なのかを知るために、私たちはこうして生きているのです。

 人間は、決して生き延びる為に、目的もなく生きているわけではないのです。愛を通して神様を知る為に、そして神様を証する為に、私たちは生きているのです。召天された方々は、それをやり遂げて、今も、私たちに愛という霊を送り届けてくださっているのです。