説教「塩と灯」
マタイ5:13~16
顕現節第5主日(2017年2月5日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

遺伝子と環境
 私たちの体の中には遺伝子というものがあるそうです。遺伝子の中に私という一人の人間が、どういう人間かについての情報が書き込まれているのだそうです。どういう性格で、どういうことが得意で、どういうことに興味があって、どういう病気に罹りやすいか、そういうことは全部遺伝子に書いてあるのだそうです。

 けれども、一人ひとりの人生は、すべて遺伝子によって決まっているというわけではありません。どう生きるか、何をしたいのか、これはその人自身が決めること。大切なのは遺伝子ではなく、その人、私たちがどういう環境で生活するか、それが大きな要因です。そしてそれを選び取って行くのは、ほかでもない自分自身です。たとえ健康な体の遺伝子をもっている人でも、暴飲暴食を繰り返していればやはり体をこわしてしまいます。

 環境といった時、それは必ずしも自然環境のことだけではありません。人的環境のことが重要です。野球を上手くなりたいなら野球の強い学校へ入って切磋琢磨するというのは、上達するにはそういう環境がその人にとって好ましいからです。ピアノが好きな人が音楽学校へ行くのは、周りがみんな音楽仲間ならば刺激もたくさんあって、より頑張れるからです。上達するにはそうした環境が大きな意味をもつのです。今、野球とかピアノを例にとって環境の大切さをお話しました。野球なら野球、ピアノならピアノと、同じ意識をもったライバルがたくさんいる中でより高いレベルを目指すことができる。つまり自分がやりたいことに一番集中できて、もっと上手くなるための環境、つまりそこでしのぎを削るという意味での環境ということをお話ししました。
 
言葉の環境
 確かに、レベルの高い人たちの集団に身を置くと、そこはエリートたちの集まりなので、他では得られないハイレベルの知識や技能を身につけることができます。上達もするでしょう。けれどもその時、もうひとつ考えなければならないこと、それは、そこでどういう人と出会って、どういう会話がなされ、お互いがどういう存在になれるかという人的環境です。それは一言でいうならば、結局のところどういう言葉がそこにあるか、ということ。そこで聴く言葉、交わされる言葉が非常に大切。先生たちから聴く言葉、友だちとのおしゃべりに出てくる言葉、耳にする言葉次第では、途中で嫌になるということもあり得るのです。

 遺伝子が生まれつきのものだとすれば、私たちが生まれてから耳にするたくさんの言葉は、それと同じぐらいあるいはそれ以上の影響力をもっています。人が人を育てる、教育が人を育てる、あるいは親が子を育てるという時、それは言葉なのです。

 聖書の言葉に触れる時、私たちはそこから非日常の言葉を聴きます。生活の中ではあまり出会うことのない言葉を受けとります。「あなたがたは地の塩である」。初めてこれを聞く人は、きょとんとして首をかしげてしまうでしょう。「あなたがたは世の光である」。いったいイエスは、この短い一言で何を伝えようとしているのでしょうか。

 言葉が人生に大きな影響を及ぼすと先ほど言いました。それは、その言葉が何を言わんとしているかをちゃんと理解できた時のことです。言葉が力となるのは、それを聞いた人がその意味がわかった時、そしてその言葉に対して、そうだそのとおりだと思った時です。もしも意味もわからないのに、その言葉に何らかの力があるとするならば、それは呪文とかおまじないとかいった類のもの。けれども聖書の言葉は呪文ではありません。聖書の言葉は、それを理解した時、初めて力となります。確かに、理解するのに少々時間がかかるかもしれません。
 
塩として生きる
 「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」。ほんの少しですが、イエスがこのように解説しています。塩は、生きるうえで欠かせないミネラルです。塩分取り過ぎも良くないですが、体から塩気がなくなると生きていられなくなります。塩はなくてはならないのです。あなたがたは地の塩だ。それは「あなたがたはなくてはならない、あなた方は必要な一人ひとりなのだ」。このメッセージをまず受けとって欲しいのです。

 次に塩の働き、塩の用いられ方を考えて、それを私たちに当てはめてみましょう。塩は最も基本的な調味料。塩味をちょっと付けるだけで素材のうま味がぐんと引き立つといいます。多すぎてもいけない、適量がいい、これが難しいのですが。イエスがこの言葉を言ったとき、味付けのことまで念頭に置いて言ったかどうかはわかりませんが、塩である私たちは、欠かすことができない一人ひとりであって、この社会の中でそれぞれがいい味をもっています。それを活かそうではないかと、イエスは私たちに期待しているのです。

 塩は欠かせないものであるだけにとてもありふれていて、とても地味な調味料です。地味という言葉を漢字で書くと、それこそ「地の塩」の「地」。地の味が地味という言葉になります。地味というとまず思い浮かぶのは、目立たない、どこにでもあるという表現が思い浮かびます。傑出していない、秀でていない、そう言ってもいいです。派手さは毛頭ありません。そして塩はその持ち味を活かす時、溶けて無くなるのです。消えるのです。消えるというとちょっと大げさかもしれませんが、人目につかないのです。けれどもそれが塩の持ち味であり、真価なのです。塩のようなあり方、生き方というのは、主の御心にかなっていると、イエスは言います。

 イエスは言いました、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6章6節)。また別のところでこうも言っています、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6章3節、4節)。これらの言葉は地の塩としてのあり方をとてもわかりやすく伝えてくれています。
 
イエスが塩だった
 もうひとつ付け加えなければならないのは、「あなた方は地の塩」とイエスが言う時、イエス自身が地の塩だったということです。塩が持ち味を発揮する時消えてなくなるとさきほど言いましたが、それを私たちに当てはめるなら、人目につかないという程度のことなのですが、イエス自身はまさしく自分をなくしたということを忘れてはなりません。イエスは十字架に架けられ、自分を消したのです。自らを消すことで、その持ち味、真価を発揮したのです。そしてそれは、私たちを引き立たせるためだったのです。私たちが生きるためだったのです。まさしくイエスが「地の塩」でした。

世の光を輝かす
 「あなた方は世の光」。こちらのほうが、地の塩よりももう少しわかりやすい感じがします。升の下に灯を置く者はいない、燭台の上に置く、これがイエスの解説となっていますが、要するに、灯りは輝かすためにあるのです。だからロウソクを灯して、その上に升をかぶせて灯を見えなくするようなことはしないだろう、というのです。升をかぶせてしまっては、世の光としての働きはできません。注意したいのは、あなたが「輝きなさい」ではないということです。世の光として周りを「輝かせなさい」と言っているのです。自分を照らすのではありません。自分の周りを輝かせる、そのための光、それがここでいう世の光なのです。

 一本のロウソクでいい。小さなランプの灯でいい。太陽のように全てを照らす光でなくていい。一本のロウソクの光であっても、その光は周囲を見事に照らしてくれることを、私たちもよく知っています。

 そしてここでも、まず最初にイエスが世の光だったということを思い出したいのです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」、ヨハネ福音書一章の言葉です。イエス自身がすべてを照らす光となって私たちを照らしているのです。

 片や消えてなくなる塩、片や光り輝くロウソク。ざっと読むとこの二つは、なんだか正反対のことを言っていて矛盾しているように聞こえます。そうではありません。自分が輝くのではないのです。人に見てもらうために自分を照らすのではないのです。周りを照らすのです。いずれの言葉からも自分は出てこないのです。

 「あなた方は地の塩である、あなたがたは世の光である」。とても簡単な言葉ですが、本当にイエスらしい言葉です。イエスの生き方そのものを表しています。そして私たちにしてみれば、これは非日常の言葉、生活の中では聞くことが出来ない言葉なのです。まったく異なった価値観がここにはあります。イエスからしか聞けない言葉、これは神の知恵の言葉なのです。塩のように地味で存在の小さな私たち、そして小さな灯である私たち。その私たちは御言葉によってイエスとつながっています。そして御言葉によって、私たち一人ひとりが欠かせないとイエスは教えています。この言葉が、今日私たちの心に残りますように。この言葉が私たちの内で、生きて力となりますように。