説教「栄光から十字架へ」
マタイ17:1~9
ペトロの手紙二 1:16~19
変容主日(2017年2月26日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 イエスの姿が変わる。イエスが山の上で白く輝き、モーセとエリアと語り合っていた。私たちは毎年、一年のこの時期にここを読み、みことばを聞きます。この時期というのは、顕現節が終わって、次週からは受難節へと切り替わるこの時期のことです。教会の暦では、今週の水曜日から四旬節へと移ります。イエス・キリストの受難を覚える40日を迎えるのです。イエスの姿の変貌は、私たちにとってこの切り替わりの変化でもあります。世の光として主なる神を顕現するイエスから、人間の苦しみのただ中に共に生きるイエスへの変貌なのです。

 本日の第二朗読の使徒書、ペトロの第二の手紙は、こう語りかけてきます。「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」「 荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました」「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」「わたしたち」と言っています。その時イエスと一緒に現場に居合わせていた三人のうちの一人ペトロ、そのペトロが、誰に宛てて書いた手紙かはわかりませんけれど、キリストを信じる人々が集まる教会に向けて、主の変貌の出来事をこのように証したのです。

 ペトロの手紙で強く意識されているのは、世の終わりがまもなくやってくるという終末観です。そしてもうひとつは、そのとき主キリストが再び現れるという希望でした。「イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせる」と宣べています。終末は近い、イエスがまもなく再びやって来る。このような信仰を彼らは抱きながら、日々生活をしていたことがわかります。かなり切迫した張り詰めた緊張感をもちながら、キリスト者の群れは生きていたのです。その時何が起こるのかはわからなくても、そうなることをかなり期待していたのではと、感じ取ることができるのです。

 今日でも、このような信仰を抱きながら信仰生活を送っている人たちもいると聞きます。確かに、地球環境の汚染とか、生態系の破壊、あるいは世界各地で起きる大きな地震といった深刻なニュースを私たちも見聞きしているので、世の終わりは近いのではないかという推測も、あながち無茶な話と言って退けることもできません。次々とミサイルを発射するかと思えば、血を分けた兄弟を暗殺する国の指導者、世界情勢を理解していない大統領が核のボタンを押す権利をもつことになりました。本当に、何がいつどこで起こるのかわかりません。そういう不安がいっぱい詰まっている世界で、私たちは生きているのです。

 ペトロの手紙を読み聞かせてもらっている人達も、心の中は不安だらけでした。そもそもイエスを信じるということだけで、彼らは伝統的なユダヤ教徒から怪しまれていたのです。キリスト教という公認された宗教がない当時は、イエス・キリストを信じるということは異端だったのです。時代は多少ずれるかもしれませんが、もしもこの手紙を読み聞かせてもらっている会衆が、ローマにある教会だったとしたら、ローマ皇帝の命による迫害にも怯えていたことでしょう。そうした状況は、現代でもゼロになったわけではありません。国家政府の監視のもと礼拝を守っている人々がいます。数年前、ラオスのビエンチャンで礼拝を守った時のこと、ラオスは社会主義国家ですが、入り口のところに政府から派遣された監視役が二人立っていました。説教者が政府を批判することを言わないかどうか、監視していたのです。地下教会といって、密かにキリスト教信仰をまもっている人たちもいます。中国にはその数の方が、政府公認の数よりはるかに多いといいます。

 時代が変わっても地域が変わっても、様々な数知れぬ不安や恐れが私たちを取り巻いています。不安や恐れがない人など一人もいません。私たちも例外なくその一人です。

 ペトロは教会に集まっている人達をこの手紙で励ましています。キリストの来臨を待ち望んで、希望をもって生きようと訴えています。そしてその為に、ペトロ自身が目撃したというイエスの山上の変貌の出来事を、力強く語るのです。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」「 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」イエスの変貌の出来事を目撃したペトロ本人から聞いたわけですから、この言葉がどれほど彼らを力強く励ましたことでしょう。

 正直申し上げて、彼らが受けたほどの力強さを私たちがこれを読んで受けているわけではありません。終末とか主の来臨という出来事を、彼らのようにもうすぐ起こると思っているわけではないからです。もっと冷静に、落ち着いて、私たちはこのみことばに接しています。冷静に落ち着いてみことばを聞くことができるというのは、とてもありがたいことです。けれども同時に言えることは、このみことばから受けとる力を、私たちはどちらかというと彼らよりも冷めた目で受けとってしまいがちになるということも言えます。

 みことばは、聞く人によって様々な受け取り方をされます。神様を信じていない人からすれば、聖書の言葉というのは、一冊の本以上のものではありません。けれども神様を信じて信仰をもって聞く者たちに対しては、これが生きた力になります。イエスの言葉が、私たちが生きるうえで力を発揮してくれるのです。大いに励ましてくれるのです。みことばは、プラスとなる力を私たちに発揮してくれるのです。私たちは神の言葉を力とすることができるのです。

 キリストの言葉、キリストの出来事が、信じる人々の力となって働くのはなぜでしょうか。その言葉が、とても優れた金言名句だからでしょうか。普通の人では言えないような真理を言い当てた言葉だからでしょうか。あるいはその出来事が劇的で神々しくて、栄光の光が輝くスペクタクルだからでしょうか。確かに山の上でイエスの姿が光り輝き、モーセがエリアと語り合ったというのは神秘的なことで、目撃したペトロたちはそれを見て打ちのめされたのです。けれどもそれはもうすでに過去のことであって、聖書に書き残された言葉を伝え聞く私たちは、もはや打ちのめされることはありません。

 みことばを聞く私たちが今置かれている立場、それがイエスの言葉を自分の力にできるかどうかの鍵となります。聞く私たちの状況が、みことばからどれだけのパワーを受けとるかを左右するといえます。どういうことかというと、イエスの言葉に大きな希望を抱いている人は、大きな力を受けとります。イエスの言葉から安らぎと平安を受けとりたい人には、主は安らぎと平安を与えて下さいます。逆に、少ししか期待していない人は、少しだけ受けとります。みことばに大いに期待して、たくさんの力をみことばからいただきたいものです。

 冷静にみことばを聞く人にも、大きな期待をもって聞く人にも、キリストの言葉が、等しく力になる時があります。苦境に立たされた時です。苦しみと痛みの中にいる時です。そのとき、イエスの言葉は信仰者にとって確かに励ましとなるのです。

 苦しい時の神頼みなんていいますが、あれは本当です。そしてそれは間違った信仰でもなんでもありません。まったく正しい信仰なのです。苦しい時、他に方法がない時は神様に頼んでいいのです。遠慮なく神様にすがるべきなのです。

 イエス様は苦しみを知っているお方です。そのイエスを遣わした神様も当然、私たちの痛みと苦しみをよく知っている方です。神様は、痛みと苦しみを私たちと共にしてくださるお方なのです。

 今週から、先ほども言ったように四旬節となります。イエス・キリストの受難、苦しみを聞く季節へと移ります。苦しみと痛みの中に、まことの神を見いだしたのはルターでした。十字架の上にこそ、まことの神が生きている、ルターはそういう表現をしています。試練や苦痛というのは、できることなら避けて通りたいというのが私たちの本音です。けれども苦しみと痛みの中にいる時、実はその時こそ、いつも神様が共にいてくださることをみことばは教えてくれるのです。

 顕現の季節には、光り輝く栄光のキリストが顕されました。来週から、私たちは試練と苦難のうちにキリストを見ます。十字架の上にキリストが顕されるのです。そしてここにこそ、まことの神がおられ、私たちにとって神様が最も身近になっていくのです。