説教「ひとつの奇跡」
ヨハネ9:13~25 
四旬節第4主日(2017年3月26日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

奇 跡
 今日は奇跡についてお話をしたいと思います。といってもどこかで聞いた奇跡物語を皆さんに紹介しようというのではありません。そういうお話なら、私よりも皆さんのほうがよくご存じだろうと思います。そうではなくて今日の福音書の出来事から、奇跡について一緒に考えてみたいと思います。奇跡とは何なのかを聖書の言葉に沿って考えてみましょう。

 奇跡物語は人類の歴史の中で数限りなくあります。世界各地で起こっています。アンビリバボーという人気テレビ番組が、毎週アンビリバボーな奇跡を取り上げているほどです。そもそも奇跡というのはまれにしか起こらない出来事を指していうはずなのに、数限りなくあるとはどういうことでしょう。数限りなくあるなら、もはやそれは奇跡とは呼べないのではないか。そういう気持ちになったりします。いずれにせよ説明のつかない不思議な出来事というのは、確かにあります。

 今日の福音書の出来事もそのひとつですが、ちょっと説明がつきません。9章から始まるお話で、イエスが盲人を癒したというエピソードの続きです。

 生まれつき目の見えない人がいて、その人の傍をイエスと弟子たちが通り過ぎようとした時、弟子たちがそこでイエスに神学的な質問を投げかけるのです。そこから出来事が起こります。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰かが罪を犯したのですか」。弟子たちの問いは、明らかに因果応報という我々にも馴染みがある考え方に縛られているのですが、イエスはそれを否定します。「そうではない。神の業がこの人に現れるためだ」と答えます。そしてイエスは、その場で即座に神の業を行いました。すると盲人が見えるようになったのです。その時イエスは、自分のつばで土をこねてそれを目に塗りつけるという、我々からすればおまじないのようなことをしました。そういうお話が前半部分にあり、今日の福音書はこれに続きます。盲人の目が開かれたことで、神の業が現れたのです。この神の業とは何なのでしょうか。

 このように、現代医学で説明のつかない癒しのことを奇跡と呼びます。目が見えない人が見えるようになったのだから、まさに奇跡です。この奇跡こそが神の業、そのように結論づけるのが、ごく一般的な最もわかりやすい解釈なのです。神がかっているとか、神ってるという言葉も流行りました。

二つの反応
 奇跡的出来事に対して、人はどう反応するか。奇跡を好意的にみるか、それとも懐疑的にみるか、このどちらかであります。今日の福音書にもそれが出ています。二つの反応があったようです。いずれもファリサイ派のリアクションだったということも、合わせて考えておきましょう。一つが「安息日を守らないから、神のもとから来た者とはいえない」でした。これは治療なのだという言い分です。治療を労働とみなすとこういう結論になります。安息日には何もしてはいけないという十戒の掟をイエスは破ったことになります。だから認められないというのです。いかにもファリサイ派らしい批判です。イエスの行った奇跡に対しての批判です。

 もう一つは、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」という声。この声は驚きの声です。ファリサイ派までもが驚いて、この事実を素直に認めたのです。福音書もこう説明している、「こうして、彼らの間で意見が分かれた」。賛成派と反対派に意見が別れたのです。意見が分かれるというのは、常日頃から我々も経験していることです。

 奇跡なのかそうでないのか。別の言い方だと、これは神の業なのかそうでないのか、という意見の対立です。ファリサイ派の意見が分かれたのです。真実は一体どこにあるのか。どれだけ議論を尽くしてもそれはわかりません。それは世の中で起こっていることを見てもそうです。金正男殺害事件の真相、アメリカ共和党政権とロシアの関係、豊洲移転問題、森友学園。今、私たちが最も注目するちまたの話題。その真実がどこにあるのか、嘘がどれだけあるのか、テレビ桟敷の我々には答えは出せません。人間のやることでも真実はわからないのです。ましてや、これが神の業なのかそうでないのか、意見が分かれて当然です。

 奇跡なのか違うのか、神の業かそうでないか。このような捉え方をすると、どっちが正しいかという議論になってしまい、結局のところここから分裂が始まっていくのです。

 冒頭に掲げた問いは、神の業とは一体何か、でありました。神の業とは奇跡のことか、という問いです。この問いにもう一度戻りたいと思います。確かに、奇跡というのは人間離れしているので、奇跡こそ神の業だと見なされやすいといえます。けれどもこの二つをそのままくっつけてしまうことに、私はとても危惧します。なぜならば、そうすることで、もっと大切なことを見落としてしまうからです。
 
奇跡を切り離す
 私は、奇跡を宗教から切り離すということを提案したいと思います。まずはこれを切り離して、神の業とは何かを考えたいと思うのです。というのは、世に言う奇跡は、決して神様の本質ではないからです。奇跡が起きるから神様を信じる、そういうことではないのだと申し上げたいのです。あるいは逆に、神様を信じれば奇跡が起きる、そういうことでもありません。実際には、世の中で起こっていることを見渡すと、そういうやり方や考え方がとても根強いのです。奇跡の癒しのパフォーマンスによって、たくさんの人が集まる教会が世界各地にあります。

 確かに奇跡と宗教は密接なつながりがあります。聖書にもほかにも奇跡はたくさん出てきます。けれども、それでも、敢えて言わなければならないのは、奇跡と宗教は切り離さなければならないということ。奇跡を宗教から切り離して、神の業とは何かを考えなければならないのです。

 そもそも奇跡と我々が呼ぶのは、実に恣意的なことです。人がそのように受け止めて勝手にそう言うことが許されているのが奇跡です。その人が奇跡だと思ったら、他の人が何と言おうと、それはもう奇跡なのです。もう一言付け加えねばなりません。この時代に奇跡と言われていたことが、 百年後には、もはや奇跡と言われなくなることも出てくるでしょう。科学的に説明がつけば、もはや奇跡と言うに値しなくなるのです。奇跡とは、それほどあやふやなことなのです。生まれつき目の見えない人が、医療技術の進歩によって、近い将来見えるようになるかもしれません。そうなったらもはやそれは奇跡とは呼ばなくなるでしょう。だからこそ、奇跡を宗教から切り離して、その上で神の業とは何かを考えたいのです。
 
まなざしの先
 生まれつき見えなかった人が見えるようになった、この出来事を多くの人が驚きをもって受け止めました。その時人々の視線は誰に集まったかというと、イエスです。癒しを行ったイエスに向いていったのです。そして「こんな凄いわざをするこの人は一体誰なんだ」、そこに大きな関心は集まります。私たちの視線もそこへと向かいます。これが人間の性です。

 今、私たちの視線をイエスではなく、癒された人に向けたいと思います。それが本来あるべき見方ではないでしょうか。福音書を書いたヨハネ自身もそうです。これほどまでに詳しく書いているのですから、せめてこの人の名前ぐらい書いてくれてもよかったのに、と思ってしまいます。名前がないのです。癒されたこの人については、残念ながら他の聖書の記述はありません。癒された人に視線を向けることで何かが見えてきます。そしてそこに現れた神の業が見えてくるのです。

 目が見えるようになったこの人の喜びは計り知れません。これを書いたヨハネの個性というべきなのか、この人が見えるようになったという喜びは書かれていません。親や兄弟家族、友人たち、彼を取り巻く多くの人たちがその喜びを共にしたはずです。喜びの大きな波がここで起こったに違いありません。癒された本人に注目すると、ここから喜びが見えてくるのです。これは聖書の中心的メッセージです。そしてそれゆえに、これこそ神の業というべきなのです。
 
憐れみ
 もう一つのことを申し上げます。なぜイエスは盲人を癒したのでしょうか。しかも安息日の掟を破ってまでして。それは、イエスがその人を深く憐れんだからです。つばを吐き、つばで土をこねてまぶたにつける。このしぐさをする前に、イエスの心の中で起こったことを見逃したくありません。イエスを突き動かした力、それが「憐れみ」でした。この出来事で、憐れみという神の業を私たちは見落とすことはできないのです。

 決してひけらかすためではない。ファリサイ派に対して挑発的に、敢えて安息日を堂々と破るためでもない。ただただ、目の前にいる生まれつき目の見えなかった人を、イエス様は憐れまれたのです。そこから奇跡が起こったのです。

 憐れみ。これこそ神御自身の姿であり、神のみ旨であり、神御自身の現れです。憐れみという一言では、その全貌を捕らえることはもちろんできません。愛、アガペーという言葉でも表現しきれません。イエスは、この神の憐れみという息吹を、ここでこの人に吹きかけたのです。そうすることで神御自身がここに現れたのです。

 「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れんでください」。そう祈る私たち。神様は私たちを憐れんでくださいます。憐れみという神の業を、私たちにも示してくださっています。