説教「包み込む愛」
ヨハネ14:15~21
復活後第5主日(2017年5月21日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 コネクティッドというカタカナをこのごろ新聞でよくみかけます。つながっているということです。ネットワークとかネットというカタカナもありますが、これもつながりを表す英語です。ありとあらゆるものがインターネットでつながっています。どこまでつながるのかというと、まだまだ終わりはありません。すべてのものがつながっていきます。自動車の自動運転も、車と車だけでなく、走っている周囲の環境の情報など、すべてとつながることで初めて実現するのだそうです。家の中の家電製品も全部つながります。家電製品ではないものまでがインターネットにつながっていきます。つながりなくして新しい技術開発はありません。

 東日本大震災以後も、つながることの大切さを私たちは思い知りました。絆という言葉をこの時ほど聞いたこともなかったのではないでしょうか。人の間と書く人間。人間というのがそもそも、つながることで人間でいられるということを私たちは忘れてはなりません。人と人との間で生きる私たちは、つながることで人間でいられるのです。

 ユダヤ人の若手歴史家のユヴァル・ハラリ氏が、人類が誕生してから今日に至るまでの歴史を著すという、とても野心的な本を書きました。それによると人間が文明を築き上げて今日があるのは、他の動物になくて人間だけに備わった二つの能力があったからとのことです。その二つの能力というのは創造性と協調性です。新しいものを生み出すというクリエイティビティー、そして、協力して一緒にやるという協調性、この二つです。協力する、一緒にやるというのは、言葉というコミュニケーションの方法によって行うわけですが、これが、人と人の間にあって共に生きるという、人間だけに与えられた才能です。つながりとか絆が意味するところもこのことだと言えます。

 ただなんでもそうですが、過ぎたるは及ばざるがごとしで、震災以後、絆があまりにも言われすぎたために、この言葉がかえって被災者たちにとって重荷になったという現実もありました。確かに、なにもかもがつながるというのは、冷静になって考えると少し恐ろしいことでもあります。全てがつながることでますます便利になるかもしれませんが、自分の情報までもがそれによって筒抜けになってしまわないでしょうか。プライバシーは大丈夫なのかという不安が確かにあります。つながることはほんとうに素晴らしいことです。けれども、そう言いきれない現実もあることを覚えておきたいのです。

 絆とかつながりという時、人と人をつなぐのはなにかというと、それは信頼です。ここで申し上げたい信頼というのは、ただ単に仕事上のやりとりでの信頼関係ではありません。きちんと責任をもってやり遂げるという責任感のことでもありません。たとえgive and takeの関係がきちんとできなくても、それでも信頼し続けていくという、さらにもう一歩踏み込んだつながりという信頼関係のことを考えています。そうした深い信頼関係を造り上げるのは何かというと、たとえば思いやりであったり、やさしさであったり、労りであったり、心配りであったりします。そうした働きかけのことを聖書の言葉で言うならば「愛」とひとまとめに言うこともできます。そうすると愛が信頼関係を築き、人と人をつないでいく力だというふうに言えます。愛によって絆ができる、そして強められるのです。

 ここまでお話して、皆さんのうちに特に違和感はないのではないかと思います。愛の絆という受け止め方はなにも聖書に限ったことではなく、ごく普通にあります。ところが今日の聖書は、どうもそういう見方とは少し違うことを言っているような気がするのです。むしろこの常識にやや反するようなメッセージが含まれています。

 2週間後の6月4日は聖霊降臨日にあたります。そして今日の福音書は、その出来事を見据えたテキストが選ばれています。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」。このようにイエスは言います。ここで「弁護者」とか「真理の霊」と言っているのが、聖霊のことです。イエスは弟子たちに対する最後の説教の中で、自分の後に弁護者、真理の霊が神様から遣わされると語るのです。

 イエスはさらに続けて、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」と言います。聖霊があなたがたと「共におり」、聖霊が「あなたがたの内にいる」。

 そして18節になると今度は主語が聖霊ではなく「わたし」になります。すなわちイエス自身です。そして同じようなことを言う、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる。聖霊があなたがたと共に、あなたがたの内に。そしてわたしもあなたがたの内にいて、あなたがたがわたしの内にいる」。「共に」とか「内に」という言葉から、位置関係を考えてみたくなります。図式化して円をつくるとわかりやすいかもしれません。

 そして21節になるとイエスは愛について言及します。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。イエスと私たち、そして父なる神様の三者の間に、愛が働いているんだなということがこの言葉からわかります。

 三者の位置関係を図式化してみると、数学でよくやるように三角形の三つの角にイエス、父なる神、私と位置づけて、それぞれを線で結んで三角形ができます。その時、愛というのはそれぞれを結ぶ線の働きをしている、と考えることができます。愛は三者を結ぶ線なのでしょうか。

 けれどももう一方でイエスは「あなたがたと共に」とか「内に」ということを言っています。そしてそこに愛があると言っています。こうなると三角形の各頂点をそれぞれ父、子、私として三者の関係を表し、それを愛という線で結ぶのは少し難しいです。むしろこれは円を重ねて描いたほうがいいでしょう。同心円です。円を三つ重ねて父なる神とイエス、そして私たちの関係を理解します。そうすると愛はどこにあるかというと、愛は三者を結ぶ線ではなく、三つの円の重なりの中に愛があるのではないかと考えることができます。愛は三つの円の中で行き交っています。「あなたがたと共に」とか「内に」とイエスが言ったときの愛のことを、「包み込む愛」というふうに呼びたいと思います。神の愛、イエスが語る愛、これは三者をつなぐ線ではなく、同心円のうちに私たちを包み込む愛なのです。自分と相手を結びつけるのに必要な力、それが愛だと考えたくなります。これこそ愛の絆という考え方です。ところが今日の聖書の箇所から聞こえてくるのはどうもそうではないのです。愛は点と点を結び合わせる一本の線なのではなく、聖書が教える愛は「共に」あるいは「内にいる」という愛、包み込む愛なのです。

 もちろん私たちと神の関係、あるいはイエスとの関係、さらには聖霊との関係というのを、○か△かなどと図式して簡単にわかるものではありません。そしてどちらか片方だけということでもありません。つなぐ線としての愛でもあるはずです。絆としての愛を打ち消すものは何もありません。今日のみことばが教えてくれるのは、愛をそれだけで見てしまってはいけないということです。「あなたがたと共に」、「内に」と表現することで初めて見えてくる愛、神様が私たちを包み込んでくださるという愛の本質を忘れることはできません。

 最後に、包み込む愛というのはどのような愛でしょうか。そしてこれが神様の愛の本質だとするならば、わかりやすい言葉で言うと、この愛はどのように言い表せるのでしょうか。相手を思いやる心とか、優しさとか、気配りだとか、愛はいろいろな形で表現できると先ほど言いました。これらの愛は、自分と神を、自分と他者とをつなぐための線というふうに言えるでしょう。けれども今日のみことばが語る愛は、これとは少し違います。包み込む愛。それがもっと具体的な形で私たちのうちに現れるとすると、どういう愛の形をとるのでしょうか。最もわかりやすいのは、母がわが子を抱く姿、子を胸に包み込む愛、そのイメージが最も近いでしょう。それはまさしくイエスが人々に示した愛です。言葉で表すならば、「憐れみ」「慈しみ」という日本語が、包み込む愛を一番上手く言い表しています。そしてイエス様は、まさしく人々を憐れんだお方でした。

 「主よ、憐れみたまえ」「キリストよ、憐れみたまえ」「主よ、憐れみたまえ」。キリエの祈りを祈る私たち。この祈りの言葉によって私たちが求めているのは、神様の包み込む愛なのです。