説教「富と神、ソロモンと野の花」
マタイ6:24~34
聖霊降臨後第2主日(2017年6月18日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 人間の言葉
 人に自分の気持ちや考えを伝えるために欠かせない言葉。言葉が人間社会に欠かせないのは言うまでもありません。神様を礼拝する時も、私たちは言葉を使います。神様だったら、世界中のどこの国の言葉でもきっとわかってくれるはず。私たちがこれまでに一度も聞いたことがないような言語でも、理解できることでしょう・・・私たちはこのように考えます。ペンテコステの日に、人々が突然知らない国々の言語で祈り始める、異言で語り始めたという事件が起こりました。先週の聖霊降臨日の礼拝でその箇所のみことばを耳にしましたが、これなどはそのことを象徴的に示していると言えます。神様はどこの国の言葉だってわかる、神様ってすごい。そんなふうに、きわめて人間的にというか、まるで人と同じ生き物のように神様のことを私たちは考えます。実際そうしないと、神といわれてもよくわからないので、人間に例えて私たちは神様のことを考えるわけです。

 では、人間に例えて考えるというのをやめてみたらどうでしょうか。さきほども言ったように、言葉はあくまでも自分の思いや考えを伝える為の道具でしかありません。言葉というコミュニケーションの道具など神様には必要ないのだと考えてみるのです。言葉を介することなしに、神様は私たちの思いや考えを直に受け止めてくれる、そのように考えたほうが、少なくとも私にはしっくりくるのです。

 また言語は国と地域によっても異なります。言語のシステムが違うだけでなく、言葉のもつ意味そのものが違っていたりします。たとえば日本では魚をよく食べるので、魚にはたくさん名前がついています。成長する前のブリのことをハマチと呼んだりします。こういう区別は英語ではありません。けれども英語だと牛肉を区別します。生後数か月の仔牛の肉のことをveal、1年以上の肉をbeefと言って呼び分けます。このように言葉は、国や地域の文化によって、こだわりによってずいぶんと違ってくるのです。こうした違いは、実際に生活してみないとなかなかわからないものです。

 聖書の言葉
 私たちは聖書を日本語で読んでいます。けれども新約聖書の原典はギリシャ語、旧約聖書の原典はヘブライ語です。ではイエスはギリシャ語を話したのかというとそうではなく、イエスはユダヤ人ですから、ユダヤ人の言葉のひとつアラム語を話していました。アラム語は、ヘブライ語にとても近い方言と考えることができます。アラム語の会話がギリシャ語になり、さらにそこから私たちは日本語で読んでいるということになります。日本語聖書ひとつをとってみても、文語訳から口語訳、そして今の新共同訳、まもなく出版されるであろう新しい翻訳と、改訳が行われています。それは聖書の正典という生の言葉に、少しでも近付こうとする涙ぐましい努力の積み重ねでもあります。

 けれども翻訳は翻訳。さらにいうなら、原典ギリシャ語にしても、それはイエスが使ったアラム語の翻訳ですので、そうなるとどうしても言葉がもつ微妙なニュアンスは失われてしまいます。

 なぜこのような話をするかといいますと、今日の福音書にはそのことが如実に出ているからです。イエスは言いました、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。有名な聖書の一節です。イエスは神様と富を並べて比較していることもおもしろいのですが、それを「仕える」という動詞でつないでいるという点もとてもユニークといえます。「神に仕える」というのは聖書の言葉としてよくわかりますが、「富に仕える」とはどういう意味なのでしょうか。これはちょっと考えなければなりません。
 
 神と富
 なぜ「神と富」なのでしょうか。原典ギリシャ語をみてみると、神にはテオスという言葉が使われています。これは普通に神と訳されるギリシャ語です。では富のギリシャ語はというと、マモンという単語になっています。これはお金に限らず、土地とか財産といった所有物全般をさす言葉です。このマモンがくせ者です。この単語は、元々はギリシャ語ではありません。元々の言葉はアラム語だったようです。ギリシャ語では上手く表現できないために、福音書記者はアラム語をそのまま使ったのではないかと聖書学者は考えています。私たちも、日本語でうまく言えない時、そのまま英語で言ってしまうということを現代でもしょっちゅうやっています。福音書を書いたマタイも、そのままギリシャ語に翻訳するとマモンという言葉がもつ倫理的、宗教的に否定的なニュアンスをうまく伝えられないと判断したのでしょう。従って、「富」という日本語から受けとるニュアンスでは、マモンというアラム語のもつニュアンスを十分伝え切れていないと言わざるを得ません。ですから、ここに焦点を絞ってお話したいと思います。

 マタイがアラム語を借用してマモンをそのまま使ったのは良かったと思います。ではもうひとつの「神」、原典ギリシャ語のテオスという単語はどうでしょうか。実はここに、この言葉を解釈するミソがあります。新約聖書原典ギリシャ語のその先、すなわちイエスはアラム語でここをなんと言ったのか、です。

 実は今の聖書新共同訳は、イエスがアラム語で語った特徴的な言葉を、そのままカタカナにしています。よく知られているのは、十字架の上でイエスが叫んだ言葉です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」、そこにある長々としたカタカタ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、これがアラム語です。「エリ」、これがアラム語で神のことです。

 イエスは今日の言葉のなかで、アラム語でエリと言ったのでしょうか。アラム語でエリとマモンを比較したのでしょうか。それが神と富になったのでしょうか。そうではないと思われます。そのように言うことができる根拠がありますので、それをご紹介したいと思います。
 
 イエスのダジャレ
 答えを先に言うと、どうやらイエスは、ここでダジャレを言ったらしいのです。そもそもマモンという言葉は、語源を辿ると「アマン」という言葉から派生しています。アマンという言葉の意味は、「信頼できるもの」、「信じるに値するもの」という意味です。

 つまりイエスはこう言ったのではないか、「アマンとマモンとに仕えることはできない」。アマンは「信頼できるもの」、ですからおそらくイエスは、アマンによって神様のことを言わんとしたのだろう、そしてマタイはこれを敢えて「テオス」すなわち神と訳したのです。一方のマモンは、自分の所有物のことですが、この言葉には自分の持ち物など当てにならないというニュアンスがあります。それにふさわしい適当なギリシャ語がないということで、マタイは訳さないでそのままマモンを残したのです。

 あなた方はアマンとマモンとに仕えることができない、これが最もイエスの発言に近い声です。イエスは、こういう言葉遊びを他のところでも実はやっています。そう考えると、イエスという人物は人々との会話をけっこう楽しんだ人だったという一面までも見えてきます。
 
 一輪の野の花
 今日のイエスの言葉の後半には、ソロモンが出て来ます。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。ソロモンといえば富です。富といえばソロモンのことです。マモンの代表者みたいな存在です。私は、今日の福音書の脈絡で語っているので、今ソロモンとマモンを結びつけて語りましたが、ユダヤ人にとってソロモンは偉大な王様です。ですから、ソロモンとマモンを結びつけることはしない方が、本当はいいでしょう。イエスは、最もリッチなソロモンと最も地味な一輪の野の花を比較したのです。そして野の花の美しさに、栄華を極めたソロモンでさえかなわないと言いました。イエスは、一輪の野の花の中に、マモンではなくアマンを見たのです。最も信頼できるものを見たのです。ここに神の子イエスの真骨頂があります。ここに、神のみことばを見いだすことができるのです

 一輪の野の花の美しさに気づいて、それをイエスのように言いきることが、私たちにできるでしょうか。せいぜい言われてようやく気づく程度ではないでしょうか。けれども、この一輪の野の花のこよなき美しさに気づいた人がいます。一輪の野の花に神様の愛を見いだして、それを詩にした人がいます。星野富弘さんです。体育の教師だった彼は、鉄棒のやり方を子どもに教えようとして、不意に鉄棒から落っこちて全身が動かなくなってしまいました。そこから神様と出会い、イエスを知り、信仰を通して世の中を見つめ始めました。口で草花の絵を描き、それに詩を添えました。たくさんあってどれも紹介したいほどですが、今日は私の好きな作品のひとつ、ドクダミの絵に添えた詩を紹介したいと思います。

 おまえを大切に摘んでいく 人がいた
 臭いといわれ
 きらわれ者のおまえだった けれど
 道の隅で歩く人の足許を見 上げ
 ひっそりと生きていた
 いつかおまえを必要とする 人が
 現れるのを待っていたかの ように
 おまえの花
 白い十字架に似ていた

 栄華を極めたソロモン以上の美しさを、星野さんはドクダミの中に見いだしたのです。イエス様の十字架が見えるよと、教えてくれたのです。今日のイエスの言葉がここにも表れています。