説教「憐れみの力」
マタイ14:13~21
聖霊降臨後第12主日(2017年8月27日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 伝えなければ
 今日の福音書は、2匹の魚と5つのパンとして知られるイエスの奇跡のお話です。たったこれだけで、男性だけでも5,000人はいた大群衆を満腹にさせてしまうほどのパンと魚を増やしたという不思議な出来事です。とても信じられないほどに不思議なことだったからでしょうか、4つの福音書全てにこの出来事は記録されています。新約聖書には、いろんなイエスの奇跡物語が出てきますが、4つの福音書全てに記録されているのはこれだけです。私たちもそうですが、福音書記者たちもこれにはただただびっくりしたのでしょう。そしてこれを書き留めて後世の人たちにも伝えねばならないと思ったのだと思います。この伝えなければならないという強い思いがあったから、キリスト教信仰は今日まで伝えられたのです。

 雲隠れ
 太平洋戦争から70年を過ぎて、戦争を経験した人たちがだんだんと少なくなっています。そうした世相から、戦争体験を後世の人たちにも伝えなければという声が、いろんなところで聞こえます。このときに言う「伝えなければ」という多くの日本人が抱く思いと、これは似ています。同じと言ってもいいかもしれません。「伝えなければ」という気持ちがなければ、伝えられないのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネたちは、イエスと出会った他の人たちよりも、ことさらにその思いが強かったのでしょう。

 少し出来事を振り返ってみましょう。13節に背景が書いてあります。13節の冒頭に、「イエスはこれを聞くと」とあります。「これ」というのは直前の出来事のことですが、なにかというと、洗礼者ヨハネがヘロデ王に捕らえられ、首をはねられ殺されたというおぞましい事件が起こったという話を、イエスは弟子から教えられたのでした。これを聞いてとった行動が13節です。船に乗ってそこを去り、人里離れたところへ退いたとあります。イエスも身の危険を感じて逃げたのでしょう。なにしろイエスはヨハネから洗礼を受けているので、仲間とみられてもおかしくありません。

 逃げようとしたのですが、実際には逃げ切れませんでした。大勢の人たちが、イエスの後を追っかけてきたのです。「舟に乗ってそこを去った」とあります。ガリラヤ湖の向こう側へわたって身を隠そうとしたのですが、ガリラヤ湖はたいして大きな湖ではないし、地元の人たちは地理感覚もあって、ある程度見当がついたのかもしれません。すぐに見つかってしまったというわけです。

 深い憐れみ
 イエスもずっと追いかけられてきっと疲れていたと思うのですが、うまく雲隠れできたと思ったら、全然そういうことはなくて、目の前には夥しい(おびただしい)群集がいたのです。そういうとき普通、どっと疲れを感じてしまうと思うのですが、今日の福音書はこう告げます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れんだ」。「深く憐れんだ」という言葉がここに出てきました。イエスは疲れを感じるよりも憐れみを感じたのです。イエスの憐れみというのは、「かわいそうに」とか「お気の毒に」ということとはまったく違うのだということを何度かお話していますが、ここでもそうです。「深く憐れんだ」となっている日本語ですが、神学者の北森嘉蔵がかつて言ったように、「はらわたが痛む」ほど、心が激しく揺さぶられたのです。

 群集を見て、なぜそれほどまでに激しい感情を抱いたのかですが、14節はこう説明します。深く憐れんだイエスは、「その中の病人をいやされた」。詳しいことはまったくわかりません。どれほどの人々に対して、どんな病気をイエスが癒したのかということは書いてありません。ここにあるのはただ2つの動詞、2つの言葉、イエスの深い憐れみ、そして癒しです。実際に治療が行われるまでにはきっとかなりの時間を要したでしょう。それに人々といろんな言葉を交わしたはずです。とうとう、そうこうしているうちにとうとう日が暮れてしまったのです。

 憐れみから奇跡が起こる
 イエスの憐れみが癒しにつながったのです。憐れみという心の変化が、癒しという行動を起こしたというふうに言うこともできます。そこに来ていた全ての人の望みをイエスがかなえたということではないと思いますが、たくさんの人を相手にしているうちに、いつのまにかあっという間に時間が過ぎたようです。まだ大勢の人々が残っていました。人数からして、全員のリクエストに応えることはできなかったでしょう。まだそこにいる人々を見たときも、イエスはきっと前と同じように「深く憐れんだ」のです。そして2匹の魚と5つのパンの奇跡が起こるのです。

 今日の福音書の中心は、誰がみても5,000人を2匹の魚と5つのパンで満たしたという出来事でしょう。福音書記者マタイもマルコもルカもヨハネもこれを記録したのは、この奇跡があまりにも衝撃的だったから、これを歴史から消してはならないと思い、伝えたかったからでありましょう。そのお話が事細かに描かれています。病人の癒しもすごいことですけれど、癒しについては、ここでは一言さらっと触れているに過ぎません。話の中心は魚とパンの奇跡なのです。

 福音のコア 
 けれども神学的にはそうではありません。福音の中心は奇跡ではありません。それはいつでもそうです。イエスは自分が行った奇跡について、いつも口止めしていました。このことを人に話して言いふらさないようにと、弟子たちに注意を促したのです。それは誤解されないようにです。福音書記者も私たちも、関心事はいつも奇跡です。癒しです。そうしたあり得ないことを起こす力に注目します。霊的、超人的といわれるわざやパフォーマンスに驚き、スゴイ!という言葉を使います。けれどももしそこにしか注目しないとするなら、神の子イエスの本当のアイデンティティを私たちは見逃してしまうことになります。なぜなら、すご技にイエスの真の姿はないからです。すご技が福音のコアではないからです。

 福音のコアは、イエスの「深い憐れみ」です。深く憐れんだことで、イエスは人々を癒したのです。深く憐れんだことでイエスは奇跡を起こし、目の前にいる大勢の人たちを食べさせたのです。癒しも奇跡も、憐れみが引き起こした単なる結果に過ぎないのです。見逃してはならない神の姿は、癒しや奇跡の中ではなくて、そういう結果をもたらしたところの憐れみという心なのです。憐れみが神さまの姿です。それがイエスによって、私たち人間に伝えられたのです。

 憐れみとは心の状態のことですから、人目につくことはありません。けれども、人目につかないからこそ、そこに神の真の力と姿があります。パウロがコリントの教会に向けて語った言葉を思い起こします。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(2コリント4章18節)。

 パウロが書いた今日のローマの信徒への手紙にも、私は憐れみを見いだすことができます。パウロはこう言っています、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9章2節)。 ローマの教会の信徒たちに向かって、パウロは自身の「深い悲しみと絶え間ない痛み」を訴えています。悲しみと痛みがパウロを動かし、手紙を書くことになったのです。ここにあるのは憐れみではなく、「悲しみと痛み」です。パウロは今、同胞のユダヤ人たちのことを悲しんでいます。救い主イエス・キリストの福音を取り違えている同胞ユダヤ人のことを思い、絶え間ない痛みと感じているのです。悲しみや痛みは、憐れみとは違うといえば違いますが、憐れみのなかには悲しみや痛みも入っているのではないでしょうか。それどころか悲しみや痛みというのは、他者のことを思い、祈る心と通じています。

 私たちの心あるいは感情というのは、実は私たちを動かす原動力です。私たちも憐れみを感じる心が与えられています。憐れみによって、神さま御自身ともつながっているのです。神さまの力が私たちにも備えられていると言ってもいいのです。

 今は理性を重視する時代です。理性と論理こそが原動力と、多くの人は思い込んでいるかもしれません。けれどもいのちを守り育むのは、理性ではなく憐れみなのです。神の憐れみの力を私たちも授かっています。大切にしましょう。そして憐れみの心を人々に向けて、神さまに用いられたいと思うのです。