説教「キリスト者の一致、その賜物と課題」
エフェソ4:1~6
聖霊降臨後第17主日(2017年10月1日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
テオドール・ディータ教授(LWFエキュメニカル研究所 所長)

 キリストにある兄弟姉妹の皆さん。今回、市ヶ谷教会にお招きいただき、ありがとうございます。

 体は一つ、霊は一つ、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ。パウロは一致について熱く語っています。今の世界は不和と争いの時代ですから、この言葉は福音です。パウロはエフェソの人たちに対して、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」と勧めています。一致とは、一人の神からいただける現実です。そしてまた一致とは、同時にリスクを伴うものでもあります。

 ですからキリスト者の一致は、神からの賜物であると同時に私たちの課題でもあるのです。私たちには一致を作り出すことはできません。これは神のわざです。私たちがしているのは一致を危険にさらすこと、ときに破壊すらしてしまうことです。ですから一致を壊さないようにすること、それが私たちのすべきことなのです。もしも壊れてしまったら、踏ん張って試練を乗り越えて、もう一度一致を回復させるようにと、キリスト者は召されているのです。

 パウロの言葉をもっと深く見てみると彼はこう言っています、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にある」。キリスト教会のボーダーをも超えた一致です。非常に力強い言葉です。神は創造者であり、創造者は唯一であり、従って創造という出来事も唯一、たった一つの創造というユニティ。たった一人の創造の神は、唯一の父なる神なのです。すべての人類にとっての父なる神? これは意外に思うかもしれません。神のことを考えたこともない人、全人類にとっての天の父なる神などと思ってもみたことのない人が何十億人もいるではありませんか。そうした人たちはどうなるのでしょう?

 宗教改革は東ヨーロッパで起こりました。その東ヨーロッパでは、最近キリスト者でない人が多数派となってきています。彼らは父である神を忘れてしまったのです。こういう言い習わしがあります。「人々は神を忘れてしまったということをさえ、忘れている」。けれどもパウロは言います、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にある」と。

 人間世界を見渡しますと気づかされることがあります。例えば、自分の国から逃げてきた人たちの中には、親と離れ離れになる子どももいます。こうした子どもたちは親をまったく知りません。また思春期に親を見捨てる子は、親と会おうともしません。子どもには父親がいますが、共にいることがないのです。しかし彼らも、自分のお父さんお母さんが誰なのか知りたいと、ふと思うのです。すると自分の親のことをもっと知りたいと、一生懸命探し始めます。どうやったら親と再会できるかを考えます。父なる神について人が知りたいと思う気持ちもこれと似ています。それをしてくれるのが聖霊なのです。聖霊は、神のことをすっかり忘れてしまったような人々の心に神への思いを呼び起こしてくれます。

 教会は、福音の説教と洗礼を授けるという手段によって、こうした人たちの気持ちに応えます。洗礼というのは、神から人間へのすばらしい約束なのです。「わたしは永遠にあなたの父、あなたはずっとわたしの子ども」というすばらしい約束、これが洗礼に込められた言葉なのです。これが人生を変えるのです。私たちにとって、神はもはや隠れてはいません。陰で支える知られざる父ではありません。私たちは神を知っているのです。経験しているのです。頼れるお方として信頼し、良いことを求めることができる相手なのです。

 マルティン・ルターにとって、洗礼は生涯にわたって慰めの源でした。失敗を経験したとき、誤りを犯して良心が咎められ、自暴自棄になったとき、ルターは「私は洗礼を受けている。洗礼を受けているのだから、私は救いと永遠の命の約束を授かっている」と思い起こしたのです。天の父なる神が存在しているというだけではなく、その神といっしょにいることがとても大切なのです。神の子であるという言葉は、私たちがcommunionすなわち神との共なる交わりにあるとき、深い意味をもってきます。神の子どもなのだと知ると、その次に気づくのは、子どもは自分一人ではないということです。神の子である私たちは、同時にその他の神の子どもたちの兄弟姉妹でもあるのです。ですからパウロは、一つの洗礼と一つの体ということを言います。すべてのキリスト者がいっしょになって一つの体を作っている。洗礼はその体への入り口です。他のキリスト者から孤立してキリスト者であるということは成り立たないのです。キリスト者であるのなら、私たちはみな一つの体のなかにあるのです。キリスト者はキリストの体だと言われます。これがいかに名誉なことか考えてみてください。キリストの体なのです。父である唯一の神、一つの洗礼、一つの体につながるのです。

 パウロは「キリストの体を信じる信仰」とも言っています。父がいるというだけでは十分とはいえません。その父がどういうお方なのかを知り、そのお方と霊的につながることが大切です。神を信じる信仰には、神についての知識も必要です。洗礼が行われるとき、信仰を告白します。神を知らずして神との交わりをもつことはできませんから、知識も大切です。キリストの体に連なる私たちは、一つの信仰を共有しているのです。この一つの信仰のうちに、私たちは一致しているのです。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」とパウロが言うとおりです。「一つの体と一つの霊」とも言っています。説教を聞くと疑念が起こります。それはほんとうなのか。信用していいのだろうか。私たちの父なる神がいるということを、どうしたら確かめられるのでしょうか?

 ルターは小教理問答のなかでこう答えました。「私は信じている。私は自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないが、聖霊が福音によって私を召し、その賜物をもって照らし、正しい信仰においてきよめ、保ってくださったことを。同じように聖霊は地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、きよめ、イエス・キリストの御許にあって、正しい一つの信仰の内に保ってくださる」。神のみ言葉を私たちは耳で聞きますが、聖霊の働きによってみ言葉を心から受け入れ、み言葉に対する信頼と愛を受けとることができるのです。ですからパウロはこう呼びかけます、「私たちは霊によって召されているのです」と。

 信じることは私たち自身の決断ではありません。私たちの目が開かれて、父としての神を知るのです。それによって福音のみ言葉を聞きます。人が語る言葉で神の言葉を聞き受けとっていきます。聖霊の働きがあるからそれができるのです。「一つの体と一つの霊」なのです。キリストの霊なしにキリストの体は存在しないのです。そういうわけで、「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼が授けられます。神はすべての父です。もしも神が独り子を世に送ることで御自身を顕すことがなかったなら、その父を私たちは知り得なかったことでしょう。そして、もしも聖霊が私たちの目を開かせてくれなければ、イエス・キリストが神の子であるという認識も起こらなかったことでしょう。

 「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働く」神ですが、神にとっては、それで十分というわけではありませんでした。神の御心は、私たちが父である神を知って、その父との霊的な交わりでつながることです。そうすることで神は父として、独り子イエスを通して働き、聖霊によって私たちの心の扉を主イエス・キリストに対して開いてくださるのです。

 一つの洗礼と一つの体、一つの体と一つの霊、一人の主と一つの信仰。すべてがつながっています。洗礼を受け、信仰を得ている私たちがキリストという一つの体だといえるのは、それが父と子と聖霊のわざだからです。キリストの体である私たちは、一人一人の信仰と愛と希望をもってつながっています。「一つの希望にあずかるようにと招かれている」とパウロが言うのはそのことです。

 私たちが望むことはなんでも、実は私たちにとって授かりものです。その一つの希望をどう受け止めるかは人それぞれなのです。人それぞれというのがいけないことではありません。そうした人間の多様性を尊重して受けとってよいのです。なぜならば聖霊が働くからです。聖霊は同一性(uniformity)の霊ではなく、聖霊は多様性を育む一致(unity)の霊だからです。けれども私たちの社会が多様性によって危機に瀕してはなりません。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、体は一つ。これぞ神であり、神のわざです。これに反するようなことがあってはなりません。

 ですからパウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」と注意を呼びかけます。福音の理解について争いがあるなら、それは誰かが間違っているからです。そうだとすれば自分が間違っているかもしれないので訂正したほうがいいと思うべきです。あるいは自分の理解を過大評価してしまい、それを他の人にも押しつけるというのも争いの原因です。自分よりも相手のほうが福音に沿っているかもしれないという認識も大切です。

 パウロは、「柔和で、寛容の心をもちなさい」と言っています。このように言うのは、福音について争いが生じたとき、それは往々にして、それぞれの性格や個性、あるいは悪意が原因となっているからです。相手が理解できないような、あるいは相手を傷つけるようなやり方をしてしまって問題となり、教会が割れてしまうことがあります。「愛をもって互いに忍耐しなさい」とパウロは教えています。決して簡単なことではありませんが、人と人、そして神との交わりを保つ方法は、これしかないのです。

 16世紀に起こった宗教改革にあっては、このパウロの忠告が守られなかったがために、当時の西側の教会は分裂してしまいました。カトリックとルーテルの国際的対話委員会は2013年に「争いから交わりへ」という共同文書を作りました。その中ではルーテルとカトリック双方が担うべき「五つのエキュメニカルな責務」が提唱され、パウロの福音的教えを取り上げています。主は一人、洗礼は一つ、一つの体と一つの信仰という福音、そして「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」という教えです。

 2016年10月31日にスウェーデンのルンドで行われたエキュメニカルな祈りの礼拝では、フランシスコ教皇とLWFの代表者の二人が司式をして、この五つの責務を読み上げました。一つ一つが読み上げられるたび、大きなろうそくから子どもが手に持ったろうそくに灯を移しました。その大きなろうそくは洗礼盤のところに置かれました。洗礼がキリスト者の一致の基盤だからです。それから子どもはカテドラルの通路をゆっくりと前方へと進み、五本の大きなろうそくに点火しました。五本のろうそくは五つの責務を表しています。五つの責任の大きさを強調する感動的なセレモニーでした。

 第一は「カトリックとルーテルは、違いではなく一致という観点から常に始めるべきであり、たとえ違いのほうが見つけやすく経験があるとしても、共有しているものを強めていくべきである」。

 第二は「ルーテルとカトリックは、相手との出会いと双方の信仰の証によって、絶えず自分自身が変えられねばならない」。違いというのは多様性という豊かさのことで、それを保つためには、お互いが出会うこと、そしてそれによって変えられていくことをよしとすることです。私たちはただ単に横並びで生きて、同じであり続け、お互いに寛容であり続ければよいということではなく、お互いに刺激しあい、助け合い、より父なる神と福音について信仰的であるべきということです。パウロもエフェソの信徒への手紙でキリストの体の一致ということをとても強調しています。ただ現実は、それぞれが別々の教会で生活しているために、これが普通とは言えないのです。ですから私たちは、目に見える教会の一致を求め続けるのです。

 第三は「カトリックとルーテルは、目に見える一致を求め、具体的な歩みの中で目に見える一致が何を意味するかを共に練り上げ、繰り返しこの目標に向かって前進することに改めて努力しなければならない」。宗教改革を振り返ると、福音の新しい理解が人々の生活にいかに影響を与えたかがわかります。その影響をどうみるかは、教会によってさまざまです。教会の外には、聖書は過去のものであり、福音が今日どのような意味をもつのかよくわからないという人もいます。

 第四は「ルーテルとカトリックは、現代にとってイエス・キリストの福音がもつ力を共に再発見するようにしなければならない」。

 第五は「カトリックとルーテルは、この世に対する宣教と奉仕の中で、神の憐れみを共に証しなければならない。イエス様は死に渡される前にこう祈りました、『世が信じるように、彼らが一つになりますように』」。

 これら五つの責務は、使徒パウロの教えをもとにしています。けれどもキリスト者の生活の教えすべてがそうであるように、これらすべてを神から賜ったのです。キリストの一つの体からいただいたのです。一致をいただきました。そして私たちはそれを保ち続ける必要があります。壊れたらそれを修復する必要があります。昨年のルンドでのエキュメニカルな礼拝は世界中が注目しましたが、両教会にとってパワフルなしるしとなりました。いただいた一致、それを求め続ける一致のしるしです。争いから交わりへ、カトリックとルーテルの争いから、両者の交わりを妨げる壁を乗り越えての交わりへ。それがあの礼拝のモットーでした。

 冒頭でフランシスコ教皇はこう祈りました、「聖霊よ、宗教改革によってもたらされた賜物を喜ぶことができるよう私たちを助けてください」。教皇が一致ということを念頭においていたのは明らかです。

 「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、体は一つ、霊は一つ」。この確かなところから、目に見える教会の一致をめざしましょう。アーメン