説教「言葉が私にとどまる」
ヨハネ8:31~36
ローマ3:19~28
宗教改革主日(2017年10月29日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
    
 イエスの言葉にとどまる     
 「わたしの言葉にとどまるならば」。イエスのこのひとことできょうの福音書は始まっています。イエスの言葉にとどまるために、私たちはこうして日曜日ごとにここにいるのです。そうでないと、イエスの言葉にとどまることはなかなかできません。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。こうして礼拝することで、イエスの言葉になんとかとどまろうとする、そうすることで曲がりなりにも「わたしの弟子である」というふうにイエス様は私たちにも言ってくださるということです。

 イエスの弟子
 「わたしの弟子である」という言い方に馴染めない人もいるかもしれません。イエスの弟子になったつもりなど自分にはないのだが・・・そういうふうに思う人もいるかもしれません。もちろんこれは聖書の中の言葉であって、実際にはイエスの12人の弟子たちに向けられているので、そのまま受けとる必要はありません。

 「弟子」というと、そこに師弟関係があって、厳しい主従関係や上下関係を想像するかもしれません。そういう関係の中で伝統が受け継がれたり、修行を積んで技を磨いたり技術を身につけたりといった、とても厳しい現実があります。実際、12人の弟子たちはイエスのことを先生と呼び、イエスに従って宣教活動をしていたわけですから、そうした縦の関係はあったでしょう。どの程度厳しかったのかははっきりとはわかりません。けれどもイエスが弟子たちだけを宣教に派遣したときなどは、下着を2枚持って行くなとかお金も持っていくなと命令しましたから、ある程度厳しかったようです。厳しかったけれども、弟子たちは、そこに生きがいとやりがいを見いだしていました。イエスとともに生きることを喜んでいました。イエスの弟子であることにプライドを持ち力強く生きていたのです。

 「あなたたちは本当にわたしの弟子である」というイエスのひとことは、イエスとともにいる、共に生きることは、実は喜びなのだと私たちにも語りかけているのです。

 真理と自由
 さらに続けて「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言います。ここにふたつの言葉があります。真理と自由。このふたつの言葉は、今も私たちの心を惹きつけて止みません。真理とは何か、自由はどこにあるのか。それを求めて、人は歴史の旅を歩み続けています。

 ふと私のうちに問いが出て来ました。イエスは真理と言った、そして自由と言った。これらの言葉をイエスが語るとき、それは私たちが思い浮かべる真理そして自由と同じことがらを指し示しているのだろうか、という問いです。なにしろイエスは1世紀のユダヤ人、私たちは21世紀に日本で生活しています。ずいぶんと文明が進んだために、ものごとの前提がそもそも違ってきてしまっています。そういうなかでもイエスが語る真理と自由は、私たちがおぼろげに考える真理と自由とずれていないでしょうか。真理と自由。私たちもなにげなく使っているのですが、その意味は時代を問わず所を問わず、文明を問わず一貫して同じことがらを指しているのでしょうか。

 真理と自由、人間は今もこれを一生懸命探しています。イエスよりもっと前の時代でもそうでした。ギリシャの哲学者も探しました。そして今も。それでもまだ見つかりません。そういう意味では、これらはきっと同じ事柄を指し示しているといえるのだと思います。

 「わたしの言葉にとどまるならば」、「あなたがたは真理を知る」、そして「その真理はあなたがたを自由にする」。このみことばからわかるのは、真理と自由にたどり着く鍵、それはイエスの言葉にとどまることです。なぜならばイエスの言葉のうちに真理があり、自由があるからです。
 
 イエスの言葉がとどまる
 イエスの言葉にとどまる」ということをもう少し掘り下げてみます。イエスの言葉に限らず、言葉が私たちを動かします。いい意味でも悪い意味でも、人を動かすのは人の言葉です。感動的な言葉が心を動かします。忘れられない大切な言葉を、人はもっています。はたまた心ない言葉で傷つくこともあります。言葉は私たちを動かすのです。それは、言葉が私たちのうちにとどまっているからです。とどまるというのを科学の言葉でいうならば、脳の海馬という部分に記憶として蓄えられるということになります。そういうふうにして、言葉は私たちのうちにとどまるのです。

 けれどもイエスは、「わたしの言葉にとどまるなら」と言っています。言葉が私のうちにとどまるではなくて、あなたがわたしの言葉にとどまるなら、と言っています。逆なのです。イエスの言葉のほうが、私たち人間を包み込んでいるのです。イエスの言葉のうちにいのちがあって、そのいのちに私たちがつながり続けるということを言っているのです。ですからこれは海馬に蓄えられた記憶のことを言っているのではないのだとわかります。イエスの言葉のうちにいのちがあるのです。
 
 信じることで言葉が力に
 イエスの言葉にとどまるために必要なことはなにかというと、それは私たちがイエスの言葉にとどまろうとすることです。イエスの言葉から離れないことです。離れてもいい、でも戻ってくることです。ちょっといい話、心のビタミン、ためになる一言。そうした言葉がたくさんあるなかで、イエスの言葉にとどまるためには、その言葉を信じることが大切です。イエスの言葉を信じることで、言葉は初めて力となるのです。信じるというのは、「ほんとうにそうだなあ」と思ったり、印象に残る気に入った言葉というのとは違います。信じるというのは、「ほんとうにそうだろうか。よくわからない」、そんなふうに感じてもその言葉を受け入れていく、というのが信じるということです。信じて受け入れることで、私たちはイエスの言葉にとどまることができるのです。間違っても、イエスの言葉が私のうちにとどまるのではありません。
 
 神の義
 宗教改革と関わりの深い言葉に神の義というのがあります。これはローマ書のなかのパウロの言葉です。「義」とは、いかにもファリサイ派だったパウロらしい言葉づかいです。私たちが普段使っている言葉というのは、人それぞれに特徴があって、各自が自分なりの言葉づかいをします。特徴といえば聞こえはいいですが、別の言い方をするなら癖があります。実業家、営業マン、家庭の主婦、牧師。みんな同じ日本語を使っていますが、職場環境で使う言葉はずいぶんと違っていて、癖をもっています。ですから専門的な話になったら、日本語であってもちんぷんかんぷんです。神の義という用語もそうした類の言葉だと思います。

 ルターは、パウロのこの言葉を引き継ぎました。この言葉と正面から向き合って格闘したのです。その結果、そこから宗教改革が起こっていきました。神の義は、ルター神学の根幹にある用語なのです。
 
 ルターとカルヴァン
 先日、私たちはお隣の教会、日本基督教団 牛込払方町教会との講壇交換を行いました。ここは長老派というプロテスタント教派に属していて、140年もの歴史をもつ伝統ある教会です。長老派というのはルターと並び称されるもう一人の宗教改革者、ジャン・カルヴァンの神学から誕生しています。みなさんもそのときのお話できっと何かを学んだことと思います。今回、私があちらへ行って説教と講演をするということで、そのための準備をしなければならなくなりました。これまでまともにカルヴァンについて勉強したこともなく、恥をかかないようにとなにか読もうと思っていたら、キリスト教書店がやって来て、「これ新刊でーす」と持ってきたのが「カルヴァン神学入門」という本でした。早速それを手に取って目次を見てみて、けっこう驚きました。カルヴァン神学の入門書には、その目次のなかに「神の義」についての項目がなかったのです。項目がないどころか、言葉そのものがないのです。最初それにちょっと違和感を覚えました。本を読んでいくと義認という言葉は確かに出て来ます。しかし神の義、すなわち神が罪人を義とするという表現は出てこないのです。その代わりに何度も出て来る用語があります。それは「神の選び」です。そしてもうひとつは「聖化」です。神の選びも聖化も、ルター神学にはほとんど出てきません。このあたりがルター神学とカルヴァン神学の違いともいえましょう。

 ルターは、神が人を義とするといいます。カルヴァンは、神が人を選ぶといいます。義とすると選ぶ。ここに言葉の違いがあります。用語が異なるのです。このことからルター神学とカルヴァン神学は大きく違う、同じキリスト教信仰であっても神学が違う、考え方が違うのだからいっしょにやれない。そういう考え方が生まれてくるわけです。
 
 一つの同じ福音
 宗教改革500年はエキュメニズムの年です。教会一致とはなにかを考える年となり
ました。それでカトリックとの礼拝や日本キリスト教団との礼拝を私たちはやってきました。LWF元議長のムニブ・ユナン氏が先日の講演会で語ったことを思い出します。「違いを強調するのではなく、同じところを一生懸命見つけよう。それがエキュメニズム」。

 ルター神学とカルヴァン神学。神の義と神の選び。ずいぶんと違っているように思われます。けれども、いずれも神から人間への救いの呼びかけなのです。神が私たちを義としてくださる、神があなたを選ぶ、これはもはや言葉の違いだけのように思えます。神さまが私たちを救ってくださるという、ひとつの同じ福音がここにあるのです。