説教「色褪せぬ希望」
マルコ11:1~11
第一コリント1:3~9
待降節第1主日(2017年12月3日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
今日からアドベントとなりました。
教会の暦を深く考えていくと、アドベントというのはちょっと不思議な季節だなと思います。実は取り扱いが少しやっかいなところもあります。なぜかというと、ここには始まりと同時に終わりがあるからです。始まりと終わりが入り交じっているのが待降節、アドベントという季節です。そこがやっかいなところです。そのあたりをまずお話したいと思います。
始まりとしてのアドベント、これは分かりやすいと思います。なんといっても教会の暦というのはここから始まります。ここにスタートラインが引かれており、そのことが私たちに、とにもかくにも始まりをまず告げてくれています。ところがよくよく考えてみると、アドベント第1主日をスタートラインとしてしまうのは、本当のところを言うとどうかと思うところがあります。ちょっと勇み足ではないか。アドベントは、実はフライングなのです。なぜならまだ始まっていないからです。ちょっと考えればわかることですが、キリスト教はイエス・キリストが救い主として生まれたことに由来します。ということはクリスマスが始まりであり、そこにスタートラインが来ておかしくはないはずです。
二千年前にそのことは起こりました。神の御子がこの世に遣わされました。ナザレのイエスが生を受けイスラエルで活動しました。ここからキリストの救いは始まったのです。こうしてクリスマスは、私たちの歴史の中に組み込まれていきました。二千年後の私たちはそのことを知っています。イエス・キリストが生まれたことを伝えられた私たちは知っています。知っているからそれを覚えて、クリスマスにイエス様の誕生をお祝いするのです。イエス様が誕生してキリスト教も誕生したわけですから、やはり始まりはクリスマスなのです。
始まりはクリスマスなのに、その前の1カ月間をアドベントと呼び、教会の暦がそこから始まっているわけです。私がフライングという理由はそこにあります。けれどもフライングをして、1カ月前から暦を始めるのにはわけがあります。その日がもうすぐ来ることを私たちは知っているからです。12月25日に御子イエス・キリストのご降誕をお祝いする日がやってくることを知っているからです。分かっているので、その日に備えて敢えてフライングして、1カ月前から始めるのです。救い主がやって来る。救い主が与えられる。救い主イエスがもうすぐお生まれになる。そういう期待と喜びがそこにあるのです。期待と喜びをひとつの言葉にするならば、それは希望です。救い主への希望を胸に膨らませて、新しい教会の暦は始まるのです。これが始まりとしてのアドベント、待降節です。
冒頭にアドベントは終わりと言いましたが、なぜアドベントが終わりと重なるのでしょうか。師走に入って年の瀬というのも、終わりを意識させるひとつといえるでしょう。けれどもそれは聖書とは関係ありません。そしてこの場合の終わりというのは1年の締めくくりということではありません。ここでいう終わりとはすべての終わり、すなわち終末を指し示しています。先週の日曜日が聖霊降臨後最終主日で、そこでは聖書のみことばも終末そのものを語る内容だったことを思い出します。エゼキエルが終末の世界を預言し、パウロは自分が生きているうちにその時が来ると思い、人々にも心の備えを語っていました。
今日のテキストはどうでしょう。新しい暦となって、今週から私たちの福音書はマルコ福音書に切り替わりました。11章の言葉というのは、イエスが子ロバにまたがってエルサレムに入城するというシーンです。アドベントにどうしてこの場面を読むのでしょうか。子ロバにまたがったイエスを人々が出迎え、喜びにあふれているという情景が思い浮かびます。人々が自分の服を道に敷き、他の人々は野原から葉のついた枝を切って道に敷きました。そして叫びます、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」。エルサレムの人々のイエスへの期待の声です。「私たちの救い主がとうとうやってきた」という喜びの歌です。ホサナと叫ぶ彼らの喜びの歌は、アドベント最初の日曜日の今日、私たちが歌う希望の歌とこだまします。喜びの賛美の声と響き合っています。
ただ、服を道に敷いて喜びイエスを出迎える彼らは、この後何が起こるのかを知りません。この福音書の箇所は、もう一度春にも読まれることがあります。春というのは主のご受難の季節です。エルサレムに入城したイエスは、この後権力者に取り押さえられ、裁判にかけられ十字架へ向かいました。そのことを私たち歴史を辿る者たちは知っていますが、服を敷いて喜び叫ぶ民衆は、この顛末を知りません。エルサレム入城は、イエスの十字架の死という終わりの始まりだったのです。それゆえ今日の福音書のみことばは、救い主を待ち望む声であり、そしてまた終わりを告げる歌でもあるのです。今日の福音書のなかに、その終わりの歌が鳴り響いているのです。
それは今日のパウロの言葉にも表れています。コリントの教会に宛てた手紙のなかで、パウロは教会に集う人々をこう励ましました。「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」。コリント教会の人たちがキリストに結ばれて、それゆえに豊かにされたことをパウロが喜んでいるのがわかります。そして彼らと共に「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」のです。ここにもアドベントがあります。私たちとは少し違ったアドベントです。
終わりということを改めて考えてみると、ひとつは止まる、なくなるということを意味します。けれども終わりにはもうひとつ前向きな意味もあります。それは完成ということです。完成とは成し遂げられたということ、あるいはやり終えたということです。キリスト教でいうところの終末は、物理的に何かが止まるとかなくなるという終わりではありません。後者です。イエスが十字架上で最後に言ったひとことを思い出します。「成し遂げられた」。終末とは成し遂げられた、完成したということなのです。神の救いの歴史が完了するということでもあります。終末というのは、すべての命がめざすべき最終地点のことであり、それはとてもポジティブな歴史観なのです。
救い主イエスを待ち望むアドベント、それはまもなくやって来るクリスマスを、わくわくしながら待ちわびることです。そしてまたそれは、救い主の再臨とともにやがて訪れる神の歴史の完成を慎み深く待つことなのです。アドベントは希望と慎みが混じり合った不思議な季節なのです。
希望と慎み、その両方に心を向けたいと思います。このふたつは別々のものではありません。使い分けるようなものでもありません。ふたつは入り交じっています。それが今日のアドベントのメッセージです。慎み深い希望、そして希望ある慎み。首を長くして待っているうちに待ちくたびれて、そのうち疲れ果ててがっかりするというのは希望ではありません。その時がなかなか来なくても、それでも辛抱強く待ち続ける。それが慎みある希望、希望に輝く慎みです。
パウロはコリントの人たちに宛てた手紙でこう書いた、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」。そしてまたローマの手紙でもこうも言っています、「希望は私たちを欺くことがありません」。
これらのパウロの言葉のなかに、希望とは何かが見えてきます。イエス・キリストにゆだねて生きる人生にとって、希望とは何かが見えてきます。上手くいかないことがあります。がっかりすることがあります。そういう時私たちは失望とか絶望と言います。けれども、パウロの教えに従えば、希望は私たちを欺かないのですから、希望は失望に終わることはないのです。
希望はいつまでも残るもの、そして私たちを欺かないのです。そういう希望を私たちは持ち合わせていません。失望や絶望を繰り返す私たちのうちにはないのです。それはひとえに神様のもの。そして私たちはそれを神様からいただけるのです。アドベントに主イエス・キリストを待ち望むことは、まさしくいつまでも残り、私たちを決して欺くことのない希望なのです。