説教「奇跡を起こしたマリアの一言」
ヨハネ2:1~11
降誕後主日(2017年12月31日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今日はクリスマスが過ぎて最初の日曜日、降誕後の主日です。今年はたまたまそれが大晦日となりました。教会の季節としては今もクリスマスシーズンなのですが、日本ではもはや大晦日からお正月の気分に浸っています。

 この日の日課として選ばれているのは、カナの婚礼の出来事です。ヨハネ福音書によると、これがイエスが行った最初のしるしであると書いてあります。日本のルーテル教会では、この福音書を降誕後に読むべき福音書としています。なぜこのテキストがクリスマスの季節に読まれるのかを考えたことがあるでしょうか。少しそのあたりのお話にお付き合いいただきたいと思います。

 年が明け元旦が過ぎて、1月最初の日曜日になると顕現主日という日になります。顕現日というのはもうひとつのクリスマスのことで、クリスマス同様に1月6日の固定日です。固定日だと平日にはなかなか集まれないので、私たちは便宜上、元旦が過ぎて最初の主日に、この日を主の顕現日として礼拝を守っています。それで顕現主日と言っています。そして顕現という言い方をしていますが、これもまたクリスマスです。従って1月6日までがクリスマスシーズンということになります。12月25日から1月6日までを数えると12日あります。それで12 days of Christmasというクリスマスの歌が生まれました。カナの婚礼は、私たちは降誕後にこの福音書を読みますが、伝統的には年が明けて主の顕現の出来事として読まれます。いずれにしても、ナザレのイエスが最初の奇跡を行ったというのは、イエスが救い主としての姿を顕した、即ち顕現されたということなのです。それも人々があっと驚くようなわざ、奇跡を行ってイエス自身が神であることをお示しになったのです。

 イエスがお生まれになったことがクリスマスなのですが、別の言い方をすると、目には見えない神様が世に顕れて見えるようになったということでもあります。神様が人となられたのです。姿をもたない神様が、卑しい人間と同じ肉体をとったのです。そこまで神は御自身を低くされたのです。そして人間を愛してくださったのです。神学の言葉ではこれを受肉といいます。これがクリスマスの中心的なメッセージです。ですからクリスマスとは、イエス様がお生まれになったということと同時に、神が御自身を顕現されたという出来事でもあるのです。カナの婚礼でイエスが水を上等のワインに変えたという奇跡を、ヨハネ福音書はイエスの最初のしるしとして記録しました。この最初の奇跡のわざが、ナザレのイエスが目に見える神として顕れた出来事とみるのです。肉をとった神イエス・キリスト、それがこの出来事でわかったのです。クリスマスシーズンに福音書からカナの婚礼のみことばを聴くのは、そのような背景があってのことなのです。

 それにしてもイエスの発言がとても気になります。母マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言います。そうするとイエスが次のように答えます。「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」。なんともしっくりこない日本語になっています。日本語訳が悪いわけでもありません。訳した人もさぞ悩んだことでしょう。学問的にもっと自由な立場から訳した岩波書店訳という新約聖書がありますが、その訳はこうなっていました。「女よ、それが私とあなたにとってどうしたというのです。私の時はまだ来ていません」。この聖書には解説が付してありますが、それによるとこの表現は強い拒否を表していると書いてあります。同じ表現は他の福音書にも度々登場していて、マタイ、マルコ、ルカいずれにもあります。そこの日本語訳をみると、「かまわないでくれ」と訳してあります。「ほっといてくれ」という感じでしょうか。そしてとても興味深いことに、それらはすべて悪霊がイエスに向かって言っているのです。

 単純に考えますと、悪霊がイエスに向かって「かまわないでくれ」と言い放った強い拒否の言葉を、イエスが母マリアに向かって「かまわないでくれ」と言って強く拒否したということになります。しかもマリアがてんてこまいでパニック寸前という時にです。たしかにこれは、解釈するうえで難問です。ではイエスは困っているマリアに対して、いったい何を強く拒否したのでしょうか。それを見る必要があります。

 この言葉を受けてマリアはすぐさま反応し、召使いたちにこう命じています、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。マリアはイエスが言った言葉を全面的に受け入れていくのです。これまたすごいことだと思います。

 このやりとりから二つの見方を取り上げたいと思います。たしかにイエスの不可解な一言なのですが、マリアにはその言わんとしたことが、しっかりと伝わったのではないでしょうか。私たちには理解が難しくても、マリアはピンときたのです。そしてそのまま受け入れたのです。彼女には母としての確信があって、この言葉をそのまま信じることができたのかもしれません。

 もう一つ考えられるのはそのまったく逆で、なぜイエスがこんなことを言ったのか、実はマリアにもよくわからなかったのかもしれないという可能性です。結婚式の宴会でぶどう酒がなくなるというのは一大事だから、猫の手も借りたいほど忙しく動き回っていたマリアには、このイエスの一言をゆっくりと立ち止まって考えている余裕などありません。言葉の意味を理解するというのはとんでもなく、実際のところ彼女自身も、息子イエスが何をとぼけたことを言っているのと思ったかもしれないのです。それで、「なんでもいいから、とにかくさっさとなんとかしてちょうだいよ」という感じでこの言葉を受けとったのかもしれません。それで召使いに向かって、イエスの言うとおりにしなさいと言ったとも考えられるのです。

 この会話が何だったのか、今紹介した二つだけではなく、きっとその他にもいろいろと考えられると思います。最初の可能性というのは、とても敬虔で信仰的な読み取り方と言えるでしょう。母と子の信頼関係があってこそというか、他人がそこに立ち入ることができないほどの近しさの中で起こったドラマです。ここからは感動を聞き取ることができます。お話の展開に美しさがあります。

 もう一つの方はどうかというと、そうした神聖な美しさみたいなものはありません。むしろ私たちの日常会話レベルの出来事です。感動的な響きもありません。母マリアと子イエスの間で起こったこの会話をどう理解するかは、皆さんの自由な判断にお任せしたいと思います。

 二つの受け取り方には、物語のドラマ性という点で大きな開きがあります。けれどもドラマ性が、みことばの中心というわけではありません。出来事のドラマ性というのは、往往にしてことがらの本質というのをかえって見えにくくしてしまいます。

 それよりも注目したいのは、ここから事態が動いたということです。マリアのこの一言で、イエスが最初のしるしを行ったのです。水をワインに変える奇跡を行い、そのわざによってイエスが神として顕現したのです。そしてそれはマリアの一言、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」という言葉で起こったのです。美しいドラマとしてそうなったのか、それとも日常のせわしないやりとりからそうなったのかは、ここではまったく問題ではないのです。

 イエスのこの一言を聞いて母マリアが喜んだのか、それとも腹を立てたのか、そういった感情の部分は、福音書の言葉からは全くわかりません。ですからそのことを問題にしないほうがいいでしょう。美しい心打たれる話だからこれは良くて、誰もが言いそうなテキトーでいい加減な言葉だったからこれはだめ、という判断を私たちはしたがりますが、それは正しい受け取り方とは言えません。だからこそドラマ性に囚われないようにしてみことばを受けとっていきたいのです。

 「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。マリアのこの一言は、いずれの言い方から発せられた言葉だったとしても、これはとても信仰的な一言と受け止めるべきなのです。マリアはイエスのこの言葉をちゃんと理解して、「そのとおりにして」と言ったのかもしれません。あるいは、「なにをちゃらんぽらんなこと言ってるの」と理解しなかったのかもしれません、ちょうど私たちのように。いずれであったとしても、そこにはイエスへの信頼があったのです。マリアはイエスにすべてを委ねたのです。そしてその信頼から最初のしるしが起きたのです。

 悪霊が発するような強い否定の言葉だったのかもしれません。私たちも、時に受け入れがたい言葉を聴くことがあるかもしれません。いやあるでしょう。理解に苦しむ言葉を聴かされることもあるでしょう。むしろ理解できることのほうが、うんと少ないのが私たちの現実ではないでしょうか。けれどもそうした中からであっても、そして強い否定の言葉であっても、そこから神様の恵みの出来事は起きてくるのです。そのことをここから教えられます。イエスを信じて生きていくとき、そういう奇跡が起きるのです。

 過ぎ去った一年に感謝をしつつ、来たる年もそのようにイエスを信じて歩んで行きましょう。