説教「洗礼という恵み」
マルコ1:9~11
使徒言行録10:34~38
イザヤ42:1~7
主の洗礼日(2018年1月14日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 きょうの礼拝には、「主の洗礼日」という名前がついています。マルコ福音書のテキストも、その出来事の記事が読まれました。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受ける。するとそのとき天が裂けて鳩のような聖霊が降り立つ。さらに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。きょうの福音書は、たったこれだけです。

 教会の暦は「主の洗礼日」となっていますが、実をいうときょうの日課は、主の顕現後の日曜日でもあります。教会手帳を見てもらうとわかるように、そこには括弧付きで「顕現2」と書いてあります。ですからきょうもまだ主の顕現を覚える礼拝を私たちは守っているということになります。このふたつは違う主日ではなくて、それが指し示す意味は同じなのだと考えてよいということです。

 先日も説教でお話したことの繰り返しになりますが、主の降誕=クリスマスというのは、神様が肉をまとってこの世に現れ出でたということ、主のお出まし、顕現、それがクリスマスなのです。この神が肉をまとってイエス・キリストとなったという出来事、その顕れを聖書の記事から拾っていくといくつかあります。最も有名なのは、クリスマスイブの日の礼拝で読まれるルカ福音書の記事です。ベツレヘムにいる間にマリアが月満ちて出産、泊まる宿がなかったので仕方なく馬小屋の飼い葉桶に寝かせたという、悲しくも美しい物語です。

 けれども顕現はこれだけではありません。降誕後に読んだカナの婚宴で水をワインに変えるという奇跡(ヨハネ福音書2章1節~11節)こそ、ナザレのイエスが神だったことを「わざ」で示す出来事だったので、これもイエスが神として現れた顕現といえます。

 そしてもうひとつの顕現がきょうのマルコ福音書、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときの出来事です。洗礼そのものというよりも、洗礼を受けたときに起こったこと、すなわち鳩のような聖霊が降り立ち、神の声が響いたことで、神がイエスのうちに顕現なさったと、信仰者は受け止めてきたのです。

 実は、クリスマスと顕現との関係はちょっと複雑です。ふたつを区別できそうでできないというところがあります。神が肉をまとってイエス・キリストになったこと、すなわちクリスマスが顕現であるとすれば、主イエスの洗礼という出来事もまた主の顕現なので、きょうの主日礼拝は、まだクリスマスということになります。こういう見方は決してこじつけではなく、カトリック教会はこれについて公式な見解をもっていて、いわゆるクリスマスシーズンとは、クリスマスイブから主の洗礼日、すなわちきょうまでとなっています。このようにクリスマスシーズンが長いのは、西側の教会と東側の教会がそれぞれの神学と伝統をお互いに受容した結果であります。どっちが正しいという主張をぶつけあうのではなくて、お互いの伝統について「いいね」ボタンを押して、歴史の中で、じゃあうちもやろうとなったので、クリスマスシーズンが長くなったのです。ここにもエキュメニカルな歩み寄りがあったということが言えます。

 さてそういうイエスの洗礼ですが、ここからは出来事そのものについてもう少し見ていってことばを聞き取っていきたいと思います。きょうの福音書の前をみると、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたことが書いてあります。それによるとヨハネが授けていた洗礼は、罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼でした。そして洗礼者ヨハネは、イエスについてこう述べます、「わたしよりも優れた方が後から来られる。わたしは、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。要するに、イエスの洗礼とヨハネの洗礼は本質的に違うのだということを言っているのです。その違いを考えてみたいと思います。

 きょうの旧約聖書イザヤ書42章の記事を見てみましょう。「 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」(イザヤ書42章1節)。神が「わたしの僕」と呼んだ人が登場します。年末のアドベントのときにもイザヤ書を聴いてそこでもお話しましたが、この僕というのは神が遣わした救い主のことです。イスラエルをそして異邦人をも救い出すメシアを指し示していると言われます。そうなると私たちにとって、これはイエス・キリストのこととなります。「僕(しもべ)」なのです。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。迫力がまったくない、「僕」なのです。人々が期待する力あふれる豪傑ではないのです。僕なのです。

 しかし神はその僕のことを次のようにも言います、「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザヤ書42章6節)。

 灯心を消すこともないほどに力のない僕なのだけれど、その人が神によって立てられて、見えない人の目を開き、囚われ人を解放し救い出すのです。まさにそれは救い主の働きなのです。

 とくに6節の一言に注目をしてください。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた」。主である「わたしがあなたを呼んだ」、「あなたの手を取った」、「あなたを形作った」、そして「あなたを立てた」。主なる神様がそれをしたということを、繰り返し繰り返しいうのです。それをしたのはわたし、主である。救い主が自ら名乗り出て、わたしが救い主になりましょうというのではないのです。救い主を立てたのは主である神なのです。それは神のわざなのです。

 ヨハネが授けた洗礼は、罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼でした。洗礼を志願してきた人がすべきこと、それは悔い改めです。悔い改めて、その心で洗礼を受ければ、あなたに神様の赦しが与えられます。そういう洗礼だったのです。そこにあるのは、私という人が悔い改めるという行為です。私の行為、私のわざが先行しているのです。

 キリスト教会がなすべき大きな働きのひとつが洗礼です。洗礼を受けたいと申し出る人に対して、教会は洗礼を授けるのです。大人になってから洗礼を受けた人ならば、そのときのことを思い出すかもしれませんが、どうでしょうか。

 皆さんが洗礼を受けたときの心境というのは、このヨハネが授けた洗礼の心境に近くなかったでしょうか。つまり悔い改めの心をもって臨み、私の罪を神様に許していただきたい。だから私は洗礼を受ける。そういう気持ちにならなかったでしょうか。私自身の洗礼を思い出すと、そういう心境でした。自分の罪を神様になんとかしていただきたい、だから洗礼を受けたいと思いました。

 イエス・キリストはそもそもヨハネから洗礼を受ける必要はありませんでした。なぜなら神の子イエスには、悔い改めて罪の赦しを受けるという必要がないからです。けれどもイエスはヨハネからこの洗礼を受けます。人のわざとしての洗礼を受けたのです。それを受容したのです。ここにもイエスは僕の姿を見せていたのです。

 けれどもそのとき、これまでにないことが起こりました。鳩のような形をした聖霊がくだったのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声が響いたのです。人のわざだった洗礼が、神のわざになった瞬間です。神様が人のわざだった洗礼を用いたのです。そして神様のわざとしたのです。イエスが洗礼を受けたそのとき、洗礼は神のわざとなったのです。

 イエス・キリストの名によって施される洗礼は、ですから神のわざなのです。もはや人のわざではありません。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取り、あなたを形づくり、あなたを立てた」。その主のわざなのです。

 ヨハネの洗礼とイエスの洗礼の違い、それは人のわざか神のわざかという違いです。これは大きな違いです。洗礼を受けるとは、神の僕になるということです。イエスがそうであったように。洗礼を受けることで心が鍛えられ、できないことができるようになって、社会で大いに活躍できる、人生に成功するということではありません。確かに、そういうことも大いにあります。けれども人間的に正しくなる、強くなるために洗礼を受けるのではありません。洗礼を受けるとは、神の力を受けとること、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の喜び、神の恵みをいただくことです。神の僕となって、神につながって生きていく喜びは、この世のどんな喜びよりも大きな喜びです。なんといっても神様がそれを喜んでくださるのですから。