説教「そうせずにはいられない」
マルコ1:29~39
コリントの信徒への手紙一9:16~23
ヨブ記7:1~7
顕現節第5主日(2018年2月4日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今日の福音書は、イエスが熱にうなされていたシモン・ペトロの姑を癒すというお話です。先週は、カファルナウムで安息日にイエスがユダヤ会堂で説教をしたというところでした。説教ですからイエスが神様のお話をした場面でした。人々はイエスの話にとても驚き感動するという部分にも注目しました。

 場面が変わって今日の福音書では、場所は会堂の外、シモン・ペトロの家だったようです。どうやらシモン・ペトロは結婚していたようでお嫁さんと一緒に姑も同居していて、その姑が体調を崩して熱を出して寝込んでいたのです

 先週の福音書がみことばを語るイエス様だとしたら、今週のイエス様は、わざをなすイエスということが言えます。シモン・ペトロの姑を癒すわけですが、マルコは次の一言を加えています。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。悪霊を追い出すというのは、当時としては病名もつかず医学的な説明ができなかったような症状をそういうふうに呼んでいたかもしれません。現代ならば心の病のことなのかもしれません。いずれにしてもイエスはシモン・ペトロの姑に対してなんらかの治療をしたのです。その結果、彼女の熱は下がったのです。

 ここに、イエスの働きの二つの側面を見ることができます。一つは神様のお話を語るという働き、そしてもうひとつは人々を癒すというわざをする働きです。この二つは、私たちからみれば別々のように見えますが、イエスのうちでは一つのことです。一つのことというのは、一人の神のことという意味です。神様はこういうお方ですと、イエス様は人々にお話ししました。またあるときは神様はこういうお方ですと、癒しのわざを行ったのです。

 ある時は神を語る、そしてある時は病気の治療をしたり心の不安を取り除いたりというわざによって神を示す。このようにさまざまな方法で、イエスは神を顕したのです。そうやって神様がどういうお方なのかを具体的に人々に示したのです。ひとまとめにして言うと、そうした働きを通してイエスは神の愛を私たちに示してくださったのです。言葉とわざによって、「あなたは神様に愛されていますよ」というメッセージを送ったのです。きょうもそうですが、「あなたは神様に愛されています」という、大切なメッセージを、教会は伝え続けています。神様からのこのメッセージを、いつの時代も決して絶やしてはならないのです。

 今日の第二の朗読は、第一コリント書から、パウロの言葉です。ご存じのようにパウロは伝道者です。伝える人でした。ではパウロは何を伝えたのでしょうか。実はパウロは、イエス・キリストが伝えなかったことを伝道しました。パウロはイエスを伝えたのです。イエスが伝えなかったイエス・キリストを伝えた人こそパウロだったのです。変な言い方に聞こえるかも知れませんが、これは紛れもない事実です。救い主イエスを伝えたのは他でもない、パウロだったのです。

 パウロは言いました、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。イエス・キリストの福音を知らせることが、私には一番やりがいがある。生きていると実感させられるのは、イエスを伝道する時だ。パウロはそう言って憚らないのです。さらにパウロはこう付け加えています、「福音のためなら、私はどんなことでもします」。

 先日、あるクリスチャン実業家の女性と会う機会がありました。この方は会社を経営しながら、ビルのオーナーでもあります。ですから裕福な人といっていいでしょう。そしてとても熱心なキリスト者です。家に招かれお茶をいただいたのですが、壁には額に入った聖書のみことばの書や聖書にちなんだ絵画がいくつか架けてありました。日野原重明氏との対談もしておられます。

 彼女の信仰的な熱心さというのは、壁にかけてある装飾品のことを言っているのではありません。この女性は、イエスを人々に伝えることがしたくてたまらないと、仰ってました。まさにパウロが今日のところで言うように「そうせずにはいられない」です。自分自身がイエス様によって救われたから、その喜びを他の人々にも伝えたいという思いをもっていて、それがあふれ出るようでした。彼女自身の信仰的体験から出る熱心さだと思います。ここに書いてあるパウロの熱意に通じるものを感じました。

 今度は今日の旧約聖書をもう一度見てみましょう。きっと皆さんの心の中には、すでにヨブ記の今日の言葉は、強いインパクトで響いているのではないでしょうか。ヨブの嘆きです。今流にいうなら、ヨブの心は完全に折れています。そのすべての言葉一つひとつが生きることへの嘆きとなっています。こういう言葉も聖書にはあるのです。

 ヨブはなぜこんなことになってしまったのでしょう。ヨブという人がどういう人だったかは最初の一節でわかります。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」人です。ですから押しも押されぬまことに立派な信仰者です。思いも言葉も行いも、見事なほどに神にかなった理想的な人、加えて経済的にも恵まれていました。うがった見方をすると、正しく生きてきたから、私は豊かな暮らしができている、そんな自負心もあったかもしれません。そういうヨブが試練としてサタンの攻撃を受けるのです。それによってヨブは全てを奪われてしまいます。富も家族も健康も、全てを失ったのです。今日の嘆きはそこから来ています。「彼はたまたま恵まれた人で、ゆとりを持って生きることができたから、神の前で正しく生きようとしているだけだ。もし彼からすべての恵みが奪い取られてしまったら、きっと神を呪うに違いない」、そういうサタンの働きかけがあったので、主なる神が「だったらそうしてみるがいい」ということになり、ヨブは大きな試練に立たされてしまったのです。案の定、出てきた言葉が今日の嘆きだったのです。

 イエスは神の愛を伝えました。言葉とわざによって伝えました。パウロはイエス・キリストによる救いを伝えました。分析的に捉えると別々のことのように見えますが、二人が伝えたのは福音という言葉でひとくくりにすることができるでしょう。神様から私たちへ無条件で頂ける恵みがあるので、それを受けとってくださいというメッセージを二人とも伝えました。無条件の恵みとは、神様の愛であり、赦しのことです。

 ではヨブはどうだったでしょう。ヨブはちょっと違いました。ヨブも神を人々に伝えようとした人です。自分の生き方によってそれを伝えようとしました。正しく生きることで神を伝えようとしました。神がどういう方なのかを知りたければ私を見ればいい。あなたも私のように生きることで神に選ばれ救われます、というメッセージでした。順調なときはそれで良かったかもしれません。けれどもヨブは全てを失ったとき、もはや自分の生き方によって神を示せなくなったのです。伝えられなくなってしまったのです。ただ嘆くことしかできなかったのです。自分の生き方で神を伝えるということ、懸命に正しく生きて神を証しようとしても、それは本当に難しい、できないと言わざるを得ないのです。

 もはや生き方によって神を証することができなくなってしまったヨブですが、私などはむしろそういうヨブのほうに共感を覚えてしまいます。順風満帆だったときのヨブというのは、自分とはあまりにもかけ離れているために身近に感じられないですが、嘆くヨブの姿の中にへこんだ時の自分自身の姿を重ねることができるからです。

 最後にパウロの言葉をもう一度聞きたいと思います、「福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです」。パウロは元々ユダヤ教徒でファリサイ派でしたから、きっと最初はヨブのように生きて、神を証しようとしていたと思います。心も体も鍛えて、非の打ち所のない人間を造り上げ、正しく生きることで天国へ行こうとしていたのです。でも私は思うのですが、そういう生き方をしつつも、パウロはどこかにむなしさを感じたのではないでしょうか。どこかに信仰者としての矛盾を抱いていたのではないでしょうか。懸命に正しく生きることができ、尊敬と名誉も受けていたパウロでしたが、心には空しさが淀んでいたのだと思います。だからこそ、パウロは復活のイエスと出会うことができたのです。正しく生きる生き方に限界を感じていたのです。空しさや、破れや、痛みがそこにあったから、パウロは復活の主イエスとの出会いがあったのです。

 空しさがくすぶっていたパウロは、福音を探していたのです。そしてとうとう福音を見つけたのです。イエス・キリストを知ったのです。その喜びの大きさは、今日のパウロの言葉でわかります。「そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。そういう福音をパウロは私たちに伝えてくれたのです。私たちも共に福音にあずかるために。