説教「復活を知った女」
ヨハネ20:1~18
復活祭(2018年4月1日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今日から市ヶ谷教会で宣教師としての働きを開始するミルヤム・ハルユ宣教師をご紹介したいと思います。ところで、ミルヤムという名前はもともとはヘブライ語の名前です。これがギリシャ語で書かれた新約聖書にはなんと書いてあるかというと、マリアです。ですからミルヤム宣教師の名前も新約聖書の言い方だとマリアになります。

 マリアといえば皆さんが最初に思い付くのは、イエスの母マリアだと思います。イエスを生んだ聖なる母マリアです。

 ところが新約聖書に登場するマリアは、イエスの母一人ではありません。たくさんいるのです。全部で7人のマリアが登場します。ですからマリアという名前は、それだけ愛された名前なのです。多くの人が付けたがった人気の名前だということです。

 もう一人のよく知られたマリア、それがマグダラのマリアではないでしょうか。グーグルで画像検索をかけてみると、マグダラのマリアの絵が無数に出て来ますが、その中には妖艶な雰囲気であやしい目つきの女性がたくさん出て来ます。そういった一面ゆえに、マグダラのマリアがよく知られるようになったのかもしれません。マグダラのマリアは娼婦であって、体を売る商売をしていた女性だというイメージがいつのまにか定着してしまったのです。罪深い女が高価な香油でイエスの足を拭くというお話が聖書に出て来ますが、この女性はマグダラのマリアのことだと、ある高名な神学者が言ったことに端を発しているようです。けれども、この女性がマグダラのマリアだとは、聖書のどこにも書いてありません。

 マグダラのマリアとは、マグダラ地方出身のマリアということです。彼女はイエスによって七つの悪霊を追い出してもらったという経験をもっており、それ以来イエスの弟子のひとりとなり、イエスのお世話をした女性です。そして、これはぜひとも覚えておいていただきたいことですが、なんといっても、マグダラのマリアこそ復活のイエスに最初に出会った人物です。それが今日の福音書でそのことがはっきりわかります。

 きっかけは、週の初めの日朝早く、彼女がイエスの墓へ出かけていったことでした。ヨハネ福音書によるとマグダラのマリアが一人で出かけていったように書いてありますが、マルコ福音書には、イエスの母マリアもいたことになっているし、他にも何人かいました。そしてそれは全員女性でした。そしてまた彼女たちこそ、イエスが十字架にかけられたときも、恐れて逃げ出すこともなく、最後までそこにいてイエスを見守っていた人たちだったのです。

 マグダラのマリアは、イエスの遺体が誰かに取り去られたことを嘆いて、弟子たちにそのことを報告に行きます。弟子たちはそれを聞いて急いで現場に駆けつけ、確かにイエスの遺体がないことを見届けるのですが、どうすることもできずまもなく家へ戻っていきます。ここにいてもどうしようもないと思ったのでしょう。けれどもマリアはそこにとどまり続けたのです。そこで泣いていたのです。イエスの遺体が取り去られてしまったと思って、涙にくれていたのです。そこに復活のイエスが現れたのです。けれどもマリアは、最初それがイエスだとわかりませんでした。お墓の管理事務所の人だと思ったようです。

 イエスは十字架に架けられる前、自分は復活するというお話を弟子たちにしていました。マリアもそれを聞いていた一人でしょう。けれども弟子たちの誰一人、それを真に受けて聞きませんでした。復活するというイエスの約束の言葉は、弟子たちの頭からすっかり消えてしまっていたのです。マグダラのマリアも例外ではなかったようです。マリアがイエスの墓にやって来たのは、復活したイエスと会うためではありませんでした。ただただ悲しむために、そしてイエスの遺体に香油を塗るためにやってきたのです。十字架にはり付けられたイエスを見上げ、くずれ涙した時のように、墓の前でマリアは絶望するしかありませんでした。

 そのとき自分の名前を呼ぶ声が聞こえました。「マリア・・」。人の名前というのは、その人の存在すべてをまるごと捉えてしまう力をもっています。名前を呼ばれて目が開かれたのです。この一言で何が起こったのか彼女は悟ることができたのです。その声を聴いて、マリアはイエスの約束を思い出したのです。

 ブーグローという19世紀のベルギーの画家が、「墓を訪ねる三人のマリア」という絵を描いています。三人のマリアが墓を訪ねたというのは、実は聖書に書いてある事実とは違うのですが、最初に申し上げたようにマリアという女性は聖書に何人も出てくるので、三人のうちの一人は母マリア、もう一人はマグダラのマリアだろうと思われます。三人のマリアが、墓の中を覗き込んでいます。奥には光に包まれた天使がいます。この絵画のおもしろさは、三人のマリアの表情がそれぞれ違っていることです。驚きと恐れに包まれて祈るマリア、墓の入り口に近付くこともできずしゃがみ込むマリア、そしてもう一人のマリアは突っ立っています。立っているマリアの表情は、どちらかというと落ち着いていて、何が起こったのかすでに悟ったような顔つきをしています。「マリア」と声をかけられ、「ラボニ」と答えたマグダラのマリアは、きっとこの三番目のマリアに一番近かったのではないでしょうか。

 このマリアは、静かにそして冷静に受け止めています。冷静とはいっても冷めているわけではありません。なんといってもつい今し方まで、マリアは泣いていたのですから。イエスの復活は、マリアの涙を止めました。マリアを立ち上がらせました。そして弟子たちのところまで出かけていき、「私は主を見ました」と告げることができたのです。

 聖書のテキストからだと静かで冷静なマリアしか伝わってこないのですが、復活したイエスによって、マリアの心が喜びに満たされていたことは、想像に難くありません。

 「私は主を見ました」。マグダラのマリアのこの一言、このメッセージこそ福音の原点といえます。私たちがきょう、こうしてイースターの礼拝を守っているのも、この一言に端を発しています。

 イエス・キリストを世界に伝えたのはパウロです。私たちはそういうふうに理解しています。たしかにファリサイ人だったパウロだからこそ、伝えることができました。理論的に、そして神学的に、イエスと復活のことを理解し、きちんと説明できたのはパウロだからです。彼によってキリストの教えは世界に広がったということは間違いありません。

 けれどもそのパウロのメッセージでも、マグダラのマリアのこの一言が秘めているエネルギーには、遠く及びません。「マリア」、「ラボニ」、この受け答え。そして「私は主を見ました」この一言。短いですが、ここに静かで大きな、そしてまるで宇宙の始まりビッグバンのような、大きな大きな喜びの膨張がビッグバンがあったのです。私たちも今日その中にいるのです。