説教「肉の言葉、霊の言葉」
ヨハネ3:1~12
ローマの信徒への手紙8:14~17
三位一体主日(2018年5月27日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 福音書の日課は、今日もヨハネ福音書です。先週のペンテコステでもそうでした。そしてそれより前の日曜日、復活節の礼拝もずっとヨハネ福音書を読んできました。そして、すでに気づいている方もいると思いますが、それとあわせてヨハネの手紙をずっと読んできました。二つ目の使徒書からの聖書日課が、先週まではヨハネの手紙からだったのです。

 今日、三位一体主日の日課も、福音書はこれまでと同様ヨハネ福音書なのですが、使徒書の日課が変わりました。今日はヨハネの手紙ではなく、ローマの信徒への手紙、すなわちパウロの手紙です。みなさんがどの程度意識するのかわかりませんが、説教する者にとってみれば、この変化には少し注目したくなるのです。これまでにもお話をしてきたことですが、ヨハネ福音書とヨハネの手紙というのは、執筆者の名前が両方ともヨハネということで、二人は同一人物ではないかという見方もあります。実際、二つを読み比べてみると言葉づかいがとても似ているところがたくさんあります。そうでない部分もあるので、聖書学の立場からは同一人物と断定することに難しさがあるようですが、よく似ているという点については、これまでもお話をしてきたとおりです。だからこそイースター以後の日曜礼拝では、ヨハネ福音書とヨハネの手紙をペアで読み、主の御言葉を聞いてきたのです。

 今日はそうではありません。ヨハネの手紙ではなくパウロの手紙をヨハネ福音書と一緒に私たちは読んでいます。この二つの手紙は、読み通してみるとわかりますが、全体から受ける印象としてはずいぶん違うなあと、たぶん皆さんも思われるでしょう。二人の違い、二人の手紙の違いをひとことでどう表現したものかと思うのですが、ヨハネの手紙は、よく言われることですが善と悪の闘いにおいてキリストが勝利するということを言います。それは光と闇の闘いというふうにも表現されます。そしてイエス・キリストは真理と愛によって、この悪との闘いに勝利する。私たちもそのキリストの愛を受けている。ひとまとめにするとヨハネの手紙にはそういうメッセージがあります。

 一方、パウロの手紙をみると、彼もまたふたつの力の闘いというか、相克という捉え方でこの世を見ています。パウロがよく用いる言葉は霊と肉です。霊と肉のぶつかりあいとして、キリスト者として生きることの大切さを述べています。そしてパウロの語る言葉の中心にあるのは、やはりキリストの十字架と復活です。ところがヨハネの手紙には、十字架も復活という言葉も出てきません。大雑把に言うことをお許しいただければ、ヨハネの手紙は、神様から永遠の命をいただくのだから、この世の力に負けないように悪と闘い勝利しましょう、という語り口になっています。それに対してパウロが書いたローマの信徒への手紙では、この世での闘いに負けないように生きることを説きつつも、それであなたは救われるわけではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるということをパウロは強調するのです。よき行いによって救われるのではないのだから、そこは注意するようにと警告を発するのです。

 さて、今日の聖書箇所に戻って、与えられた聖書箇所が示す御言葉に目を注いでいこうと思います。そしてパウロの言葉との組み合わせから、ヨハネ福音書の御言葉を聞きましょう。さきほどお話をした二つの手紙の比較から見えてきたパウロの手紙の特徴ですが、これがヨハネ福音書に出て来るイエスの言葉とどのように絡み合ってくるのかであります。するとひとつ、今日の福音書から見えてくることがあります。6節の言葉です。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。イエスが肉と霊をこのように語っているということがわかります。肉と霊というのは、パウロも好んで用いた表現です。

 今日与えられているローマ書には霊だけが出ていますが、肉と霊については、ガラテヤ書で次のように言います。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。肉と霊は対立し合っているということを言って、この後にパウロは肉の業というのをいくつか紹介しており、そこでは具体的な罪のかたちをいくつかリストアップしています。

 今日のイエスの言葉はどうでしょうか。ニコデモというファリサイ派の議員との対話から出てきています。イエスはニコデモに言います、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。それに対してニコデモは、イエスが言った「新たに生まれる」ということについて突っ込んで聞いてきます。

「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」。

 ニコデモのこの言葉を受けて、イエスは「新たに生まれる」ということを言ったのです。ニコデモは、肉の言葉で考え、肉の言葉でイエスと対話しているということです。二人の話がかみ合わないとは、まさにこのことです。この部分の会話というのは、私たちに多くの示唆を与えてくれます。というのは、こういうことを私たちもしょっちゅうやっているからです。

 言葉というのはあくまでも言葉です。事柄そのものではありません。当たり前のことです。そして言葉というのは意味をもっているわけですが、その意味が相手に伝わらなければ、その役割を果たすことができません。ニコデモはニコデモなりに、「新たに生まれる」というイエスの言葉を理解しました。だから次の質問へとつながっていきます。けれどもイエスがニコデモに伝えようとしたことは、残念ながら彼に伝わらなかったのです。それはなぜかというと、イエスが霊の言葉で考えて霊の言葉で話しているのに、ニコデモはそれを肉の言葉と受け止めて、肉の言葉で考えたからだといえます。それでイエスの次の言葉、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。が出てきます。新たに生まれるとは、肉の言葉で考えて肉の意味で受けとるというやり方から、霊の言葉で考えて霊の意味で受けとるというやり方に切り替えることです。

 普段私たちが使っているのは、そのほとんどが肉の言葉だといえます。肉の言葉と肉の意味、そして肉の考え方をしています。地上で、肉体という体を伴った肉の生活をしている以上、そうするしかないですし、多くの場合それでいいわけです。

 私たちがこうして日曜日ごとにイエスの言葉に耳を傾けるのは、まさしく霊の言葉を聴くためです。そして霊のことがらを考えるためです。私たちもニコデモだといわざるを得ません。新たに生まれるというイエスの言葉を聴いても、それを肉の言葉でしか受け止めることができないのです。

 聖書を読むという行為を考えてみましょう。色んな読み方ができると思います。聖書には世界では常識となっていることがたくさん書いてあるから、それを知っておかないと世の中渡れないから一応知っておく。これは知識や教養を身につけるために読む読み方です。あるいは聖書には中東の古代の歴史が書いてあるから、歴史や考古学の研究のために読むという読み方もあります。これは信仰をもっていてもいなくてもできます。キリスト教信仰を土台にして読む場合でも、聖書神学という学問研究の対象として読む読み方もあります。今紹介したような読み方は、いずれも聖書を肉の言葉として読むという読み方になります。そこに霊の言葉が入り込む隙間はありません。

 聖書が、そういう目的で書かれたものでないことは明らかです。イエス・キリストを伝えるために書かれ、編集された書物です。イエス・キリストが神の子であり、救い主であり、私たちの罪のために十字架に架けられ、三日目に復活したということ。ひとえにそのことを後代の人類にも語り継ぐ、その目的のために書かれたのです。

 この証を聴くために、私たちは礼拝で御言葉を聴き、耳を傾けるのです。聖書の目的にかなった御言葉との接し方です。そのとき、私たちはイエスの言葉に自分を明け渡すのです。御言葉の中へと自分を委ねて聴くのです。疑問を挟むことなく、心を開いて。普段はなかなかできない聴き方読み方です。批判的になれとか、まずは疑え、なんてことを勧められます。そうでないと危険がいっぱいの世の中ですから。もしも聖書をそういうふうに読むと、つまりいつもやっているように肉の言葉として聞くなら、教養は身につくかもしれませんが、私を動かすことはありません。あなたを新たに造り変える力にはなりません。私たちを新たに生まれさせる力を聖書から受けとりたければ、その言葉に自分を委ねきって、すなわち信じて、「アーメン」と応えて受けとることです。そのとき初めて、霊の言葉となって届いてきます。自分を明け渡して聞くことができる言葉をもっているということは、なんと幸いなことでしょう。イエスの言葉以上に、それができる言葉はありません。