説教「神の節目」(テキスト版)

説教「神の節目」
マルコ2:18~22
第二コリント3:1~6
聖霊降臨後第4主日(2018年6月17日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 昨年は宗教改革500年の年でした。500年という節目を憶えるというのは、考えてみればすごいことだと改めて思います。この記念の年を迎えるにあたって日本福音ルーテル教会が特に心に留めたのは、これを記念に終わらせないということでした。この節目に教会全体で確かめたことを、さらに前進させようと思いを新たにしたのです。つまり宗教改革500年で改革が終わったのではなく、ここから新たな改革へと歩みだすのです。カトリック教会をはじめとする他教派との合同礼拝や交流は、500年事業の中核といえる行事でしたが、「500年記念を記念で終わらせない」ためにも、501年以後これをさらに推し進めていくことになるでしょう。

 節目、区切りというのは確かにとても大切です。過去を振り返る時間がもてるのは節目です。そのとき気持ちが新たにされます。心機一転リセットできます。私たちにはこういう時がいつでも必要です。夜寝て朝起きるというライフスタイルは、私たちに欠かせない生理的なリセットです。パソコンがフリーズしてしまって、にっちもさっちもいかなくなった時、リセットボタンを押してやるとまたきちんと作動するという経験がおありでしょう。宗教改革500年でルーテル教会はそれをやったのです。リセットボタンを押したのです。

 今日の福音書では、ファリサイ派の人が断食についてイエスと議論をしています。その中でイエスが次のようなことを言います。「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。もともとファリサイ派が指摘したのは、「イエスの弟子たちが断食しているところを見たことも聞いたこともない。それであなた方は神様の僕といえるのか」、そういう批判でした。またここにはヨハネの弟子もいます。洗礼者ヨハネの弟子です。彼らもファリサイ派といっしょになって批判しています。これはちょっと意外な気もします。ご存じのようにイエスはバプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けているのです。

 バプテスマのヨハネの活動拠点は荒れ野でした。都会を避けた世捨て人です。主食はイナゴと野蜜、らくだの毛衣をまとうという出で立ちが、それを物語っています。欲望を遠ざけることで心を浄めて、悔い改めた己を保とう、というのが彼らの生き方でした。だから断食は当然の宗教的修行でした。

 一方イエスは、確かにバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのですが、ヨハネとはその点、少し考え方が違ったのです。イエスの活動拠点は、人の住む街中でした。民衆の中に混じって生活していました。断食を修行としませんでした。イエスは、祈ることはしきりに教えましたが、断食しなさいという教えはしませんでした。つまりごく普通に生活しながら、そこで神の愛を説いたのです。そういう意味では宣教の仕方もライフスタイルも、イエスはヨハネとは違っていたということが、ここをみるとわかります。「その日には、彼らは断食することになる」と言いますから、断食を否定しているわけではありません。

 その日とは「花婿が奪い取られる時」です。ファリサイ派の批判に対してイエスがまず言ったのはこうです。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。イエスは自分自身のことを花婿にたとえたのです。ですから花婿が奪い取られるときというのは、十字架のことを指しています。そのとき弟子たちは断食するであろうということです。ここからわかることは、ユダヤ教やキリスト教において断食は修行ではないということです。断食は悔い改めのしるしではないのです。悔い改めを説いた洗礼者ヨハネが断食と言う時、それは悔い改めの断食でした。その点はイエスも同じなのです。「花婿が奪い取られる時」というのはイエスにとっても断食の時なのです。

 「花婿が奪い取られる時」を、イエスは節目ととらえています。カイロスというギリシャ語が聖書に何度も登場しますが、それは神の時のことです。神が用意した節目のことです。花婿が奪い取られる時、それが神の節目となるのです。

 続いてイエスはこう言います、「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」。着古した服の生地はもう繊維自体がヨレヨレで破れやすくなっています。そこに新しい布切れをあててパッチをしても、却ってもっと破れてしまいます。ぶどう酒を入れる革袋も同じです。発酵する力の強い新しいぶどう酒を使い古した革袋に入れると、発酵力に耐えられなくて革袋が破れてしまいます。ユダヤの人たちの経験則なのでしょう。「新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ」。ここにも節目があります。ここにも神の節目、カイロスが表現されています。

 十字架という出来事が神の節目となりました。ここから新しい時が流れ出したのです。このことをパウロは、今日のコリント書のなかで次のように言っています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。「新しい契約」ということを言っています。そして「文字ではなく霊に仕える」と言います。もともとユダヤ教徒だったパウロが契約というとき、それはモーセの書に刻まれた神の約束、すなわち律法を指します。石版に刻まれた十戒のことと言ってもいいです。パウロがここで「文字」と言っているのも律法のことです。これらのパウロの言葉にも神の節目を見いだすことができます。この節目を境にして文字の時代から霊の時代になったのです。律法の時代から、福音の時代になったのです。霊が人を生かす時代へと切り替わったのです。

 イエスの十字架が節目となって、新しい時が始まりました。これはもはや古い革袋では納まりきらないのです。「文字は殺すが、霊は生かす」とパウロが言ったのは、まさしくこのことだったのです。

 「文字は殺すが、霊は生かす」。この御言葉を私たちに当てはめてみたいと思います。パウロの意図は、イエスの十字架が私たちに救いをもたらしたということなのですが、そのこと以外にも、この御言葉が教えていることがあるように思います。この言葉に捉えられたのはアウグスティヌスで、「霊と文字について」という論文を書いています。そしてこの論文は、ルターに大きな影響を与えたのです。

 先日、LCMという海外教会との協議会がありましたが、その時九州学院代表で参加していた理事長の長岡立一郎先生が、学校教育の責任者の立場から海外の教会に対してこういう質問をしました。「日本では昨今、道徳教育がいろいろと取りざたされていますが、みなさんの国の学校では道徳はどのように教えているのですか」。アメリカ、ドイツ、フィンランドの代表者たちは、ほぼ同じ答えだったと記憶しています。「そういう教科はない」という答えでした。「キリスト教学校なら聖書に基づいて道徳や倫理を教えることはある」とも付け加えていました。

 正しく生きるにはどう生きればよいか。それこそ道徳が目指している目標と言っていいでしょう。道徳で何が正しいことかをきちっと教えて、それをまず覚え、それを守れば正しく生きられます・・・。これが文字によって正しく生きるということです。けれどもアウグスティヌスは、それだけでは正しく生きることにはならないと言います。愛するということがそこになければ、ほんとうに正しいとは言えないのだと。そういうことを「文字と霊について」の中で説いたのです。その愛を注いでくれるのが聖霊であり、聖霊によって私たちの心が善へと向かうと語っています。その結果、私たちは喜びで満たされ、それが神様の御心にかなうことになります。善き業に励むとき、そこに喜びが伴うことが大切です。その時、確かに聖霊があなたに注がれているのです。きょうの御言葉に照らして言うならば、愛と喜びが伴うとき、「霊が生かす」ことを知ることが出来るのです。

 イエスが言う新しい革袋、十字架によってもたらされた節目、カイロス。文字ではなく、私たちは聖霊によって生かされています。この切り替わりが神の節目によってもたらされたのです。

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