説教「イエスの寝顔」
マルコ4:35~41
第二コリント7:1~16
ヨブ38:1~11
聖霊降臨後第9主日(2018年7月22日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今日はまず、旧約聖書ヨブ記から見ていきましょう。旧約聖書を読んだことがあれば、ヨブについて一度は読んだり聞いたりしたことがあるかもしれません。どういう人かというと、ヨブは「無垢な正しい人、神を畏れ、悪を避けて生きていた」とあります。そして富にも恵まれ、家族も多く、家畜もたくさん所有していました。ところがある時、サタンが神に次のように言います。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」。つまりヨブが神の前に正しく生きているのは、御利益が目当てなのじゃないのかと問いかけるのです。御利益宗教という言葉がありますが、結局のところヨブもそれと同じで、富と名誉が欲しいから、だから神の前に正しく生きているだけじゃないのか、ヨブの目的はそこにあるのじゃないか。サタンは神にそう問いかけたのです。決して無垢なんかじゃない、ヨブにもそういう下心があるに違いない。そういういじわるな質問をサタンが神に投げかけたのです。

 すると神は「ではお前の好きにするがいい」と言って、サタンがヨブから持ち物すべてを奪い取ってしまいます。家族も家畜も失ってしまいます。とうとう健康も失って、ヨブはひどい皮膚病に罹ってしまいます。すべてを奪われたヨブでしたが、それでもヨブは次のように言います。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」。サタンの思い通りにはならなかったのです。そういうヨブだったのですが、あるときとうとうヨブの口から神様に向かって嘆きの言葉が飛び出します。

 「どうか、過ぎ去った年月を返してくれ。神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたはご覧にならない。あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される。私の皮膚は黒くなって、剥げ落ち、骨は熱に焼けただれている」。

 ヨブはこのように嘆いたのです。今日のヨブ記の言葉は、嘆くヨブに対してようやく届いた神の言葉です。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか」。「わたしに答えてみよ」。神のヨブへの言葉は圧倒的でした。有無を言わせぬ神の力を、言葉から受けとることができます。大地の広がりを決めたのはこの私、神である。大地を造ったのはこの私なのだと神がヨブに語りかけています。神とは誰なのか。人間とは。人間にとって神とは?

 神と人間の関係を探るこのような問いをする私たちですが、答えはただひとつです。「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」、これだけです。ヨブは正しかったのです。主は私たちをこの世にお与えになりました。私たちが生きるために、たくさんのものを私たちに与えてくださいます。そしてその同じ主が、私たちから奪っていきます。私たちを奪います。私たちはただ主の御名は褒むべきかなと、主を賛美するのみなのです。これが神と人間の間柄です。神の前に生きる私たち人間です。

 嘆いたのは、実はヨブだけではありません。コリント書にあるパウロの言葉をみると、パウロも嘆いたことがわかります。コリント教会はパウロが生んだ教会です。パウロが一生懸命伝道して、その結果できたのがこの教会です。ところがパウロがいなくなったあと、教会内でパウロのことを悪くいう連中がいて幅を利かせるようになります。伝令からそれを聞いたパウロは、とんでもない誤解だと言わんばかりに何通も手紙を書くのです。パウロはかなり手厳しい言葉を使ったようで、8節にはこんな言葉もあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔しません」。「あの手紙」とは、よく涙の書簡と言われますが、残念ながら現存していません。 コリント書第二は、その涙の書簡の後に書かれた手紙ということになります。涙の書簡ほど激しくはないでしょうが、随所にパウロの怒りと落胆を読み取ることができます。「私たちは誰からもだまし取ったりしていない」。そういう噂が教会内に広がっていたということでしょう。またパウロはこの手紙の中で、伝道旅行の苦難を述べています。「マケドニア州に着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」。パウロはコリント教会の人たちに、自分の今の心境を正直に吐露しているのです。

 今日の聖書の言葉にあるのは、恐れであり、不安であり、嘆きであり、悲しみです。ヨブもパウロもそうでした。誰よりも神を信頼し、神を畏れ、神を信じて生きてきた信仰者の模範ともいうべき人々の内なる声です。状況こそ少し違いますが、今日の福音書に出て来る舟の中の弟子たちもまったく同じで、彼らもまた風が強く吹いてきて、恐れと不安を抱いたのです。

 ヨブの場合は全てを失ってしまったという嘆きでした。そして悲しみでした。パウロの場合は、コリント教会の人たちとの人間関係が壊されたという嘆きでした。そしてまた伝道する際の幾多の困難に立ち向かわなければならないという、自分が抱え込んでいる仕事の厳しさに直面した苦難でした。そのせいでパウロは健康を害してしまうので、肉体も精神もかなり追い込まれていたのでしょう。けれども舟の中の弟子たちの場合は少し違います。

 彼らは自然の猛威を恐れたのです。嵐のために舟が沈んでしまうのではないかという恐れだったのです。

 私たちはどうでしょうか。私たちは程度こそ違うけれども、これら全てを不安に思い、恐れを抱き、時に嘆き落胆すると言ってよいでしょう。ヨブのように、持っていたものを失うことを経験し嘆くのです。奪われて嘆き悲しむのです。パウロのように人間関係がうまくいかなくなって、人を恐れ、信頼できなくなるのです。目の前の仕事に音を上げます。そしてイエスの弟子たちのように、自然災害にいつ襲われるともわからないという恐れを抱きながら生きています。信仰者でありながら、信仰をもたない者のように、いつも恐れ、嘆き悲しみ、不安を抱えながら生きているのです。

 今日の福音書に出て来るイエスをどうみるかは、人によってさまざまでしょう。ガリラヤ湖に向かって「黙れ、静まれ」と命じるイエス。すると風がピタッと止んでしまう。まさに神がかっており、私たちの知る限りの経験と理性で考えると、こういうことはあり得ません。この出来事を、何が何でも理性的に理解して納得しようとする必要はありません。ヨブに語りかけた圧倒的な力を誇る神。大地を据えてその広がりを定め、宇宙のすべてを造り支配する天の父なる神の姿が、湖を叱りつけて黙らせる神に映しだされています。

 このお話から教えられることがひとつあります。それは、自分の頭と知識で推し量ることのできない現実というものがあって、信仰者はそれを認めることができるということです。イエス・キリストのうちに父なる神御自身をそのまま見いだすことができる人は、この出来事をそのまま受け入れることができるでしょう。書かれている言葉は多少大げさかもしれないけれど、イエス様が風を静めたということはあり得るのだと、そのまま御言葉を聞くことができる人は幸いな人です。ひょっとするとそうなのかもしれません。

 この奇跡が本当にあったのかどうかをあなたは信じますか。信じないあなたは偽物クリスチャンですよ、素直に信じることの出来る人の信仰は本物です、などという話では全然ありません。それはどちらでもかまいません。今日の福音書で私が注目したいのはそこではなくて、注目したいのは、嵐の中をすやすや眠るイエスの寝顔です。弟子たちが大騒ぎしているというのに、心一つ乱さないで眠りこけるイエス様であります。眠ったら何があっても目を覚まさない人って、たしかに時々います。周りが騒いでいてもすやすや眠るのが最も得意なのは、なんといっても赤ちゃんです。赤ちゃんは、確かに恐れがありません。泣くことはあっても心に不安はありません。そして赤ちゃんはヨブのように無垢です。

 嵐の中でのイエスの寝顔は、全てを主に委ねた者の全き平安そのものです。いついかなる時であっても、主なる神は私たちと共にいてくださるという慰めと平安が、嵐の中に眠るイエスの寝顔です。

 この安らぎ、この平安、この祝福。それを私たちはいただいているのです。神様から約束されているのです。ヨブのように、パウロのように、そして弟子たちのように私たちもまた恐れと不安を抱きますが、それでも私たちもまた、これらの恵みを授かっているのです。