説教「心と体と霊」
マルコ7:31~37
ヤコブ1:19~27
イザヤ35:4~10
聖霊降臨後第17主日(2018年9月16日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
書店に並ぶ本ですとか動画サイトには、健康のためのエクササイズがたくさん紹介されています。みなさんも何かしていらっしゃるかもしれませんね。筋トレやストレッチなど実に多種多彩で、あれもこれもやることはできないし、いったいどれをやったらいいのかわからなくなってしまいます。けれども体を健康に保つためには、すこしでもそうした運動をやるといいだろうということで、私の場合は犬の散歩と軽めの筋トレを少しだけやって、なんとか体力を維持しようと思っていて、まあこれでいいだろうと思っています。
今のお話は体の健康についてですが、同時に私たちは心も健やかでありたいと願います。平安な心でいたいと思います。そのためにはストレスを減らすのがまず第一とされます。ストレスを発散させるための工夫や方法も、身体同様に実にたくさんあります。
そして心と体だけでなく、霊的にも健やかでいたいと願うのが、信仰をもつ私たちです。霊的な健やかさとは、神様とのつながりを大切にすること。神様との結びつき、すなわち霊性のことです。霊性という単語はあまり一般的ではありませんが、スピリチュアルという言い方のほうが知られているかもしれません。
スピリチュアルでも霊性でもいいのですが、そういう言葉を使ったとたん、話は突然宗教的になっていきます。普通、世間で宗教のことが話題になる時というのは、スキャンダルがあった時ぐらいで、あまり好んで人々が話題にするテーマではないのですが、霊性とかスピリチュアルなことを大事にしている人というのは、実はものすごく多いのです。私たちのように礼拝にこうして出席して、自分の信仰を表明する人は少ないですが、表には出さなくてもスピリチュアルを大切にする人、そういう意味で宗教的な人というのは、そうでない人よりも圧倒的に多いそうです。宗教とは無縁なところでも、実は霊性という言葉が使われていたりします。その例をひとつ紹介します。
世界保健機関(WHO)は健康を次のように定義づけています。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的(mental)にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」。1998年に、この健康の定義を変えようという話が持ち上がって、実際に新たな定義が提案されたのです。どこが新しくなったのかというと、WHOの健康の定義のなかに「スピリチュアル」という単語を加えたのです。mentalのあとにspiritualが加えられました。この提案は、WHOの理事会で総会提案するかどうかで採決がなされて、そのときの採決では賛成22、反対0、棄権8で採択されました。けれども緊急性が低いなどの理由で、その後の総会で提案されておらず見送りとなって現在に至っているそうです。
mentalを日本語に訳すと精神的となります。spiritualは霊的と訳すことになります。心と体という言い方が定着していますが、このごろはカタカナでメンタルとフィジカルと言ったりもします。さらに近頃は、これまで心とかメンタルと言われてきた気分的な部分も、実は脳の働きであり、脳内神経を行き交う伝達物質が私たちの気分を左右しているということがわかってきました。つまりメンタルも、実はフィジカルな働きなんだというのが医学的な見解ということになります。
もしも人間の命がそこで完結するのであれば、心と体、メンタルとフィジカルだけで片がつくのでしょう。ましてや今やメンタルもフィジカルなんだということになれば、人間というのはフィジカルだけで説明がついてしまいます。
いや、そうではない。人間はフィジカルだけでは語れない。人間にはもともと備わっていないメンタルでもフィジカルでもない、人間の外からの力、目に見えず、科学でも解明できない、神秘的なところが人間にはある。それがあるから、人間は人間なのだ。そのように信じるとき、霊性、スピリチュアルな力がとても大きな意味をもってきます。
だから私たちは礼拝をします。神様に祈り、主を賛美します。今の脈絡でいうならば、心とからだのケアだけでは十分でないのです。もうひとつのケア、スピリチュアルなケアを礼拝で行っているのです。
今日の三つの聖書箇所は、ひとつの共通テーマでつなぐことができます。主イエスが耳の聞こえない人を聞こえるようにして、癒されたその人が聞くことができるようになった、というのが福音書の記事です。旧約聖書のイザヤ書は、「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」と預言しています。これを合わせて読むと、今日の福音書の出来事は、あたかもこのイザヤの預言の成就であるかのようです。またヤコブの手紙は信者の群れにこう呼びかけます。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」。このように三つの聖書箇所は、いずれも耳で聞くことに焦点を当てているのです。
聞こえるようになったその人は、名前も記されておらず誰だかわかりません。イエスも初めて出会った人だったのでしょう。聞こえるようになり、その人はさぞ大きな驚きと喜びに包まれたことでしょうけれども、その人がどのように喜んだのかは詳しく書かれていません。ただイエスがなした癒しとそこに居あわせた群集の反応しかありません。これはとてもマルコらしい書き方ともいえます。喜びの表現はありませんが、その人の喜びと驚きはすでに私たちにも十分伝わっています。「エッファタ」という聴く力が十分にある人々にとって、聞こえるというのは普通のことと受け止めてしまいがちですが、今日のヤコブの言葉は、そのような私たちを厳しく戒めています。「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。ヤコブは聴き方について教え諭しています。これをもう少し丁寧に言い換えるとするならば、「丁寧に聞いて、よく考えて返事をし、腹を立てて激しい言葉を返すのはやめなさい」、ということでしょう。このヤコブの言葉を、今日私たちも神様からの戒めとして聞きたいと思います。あわてて聞くと必ず誤解します。考えなしにしゃべってしまうと人を傷つけかねません。ついイラッとして激しい言葉を返してしまいます。
ヤコブの手紙というのは、信仰そのものよりも行いを強調した手紙ということで、ルターがあまり評価しなかった書簡です。それがためにルター派教会では、なんとなく一歩引いた、やや遠慮がちな読み方しかされないという一面があります。
今日のヤコブの御言葉も、確かに行いを強調しています。けれども、行いを強調するからヤコブの手紙はだめだ、などと誰がいうことができるでしょうか。行いによって救われる、わざによって義(ただ)しい者とされると説くことはできませんが、救いと切り離したとき、行いが尊いことはいうまでもありません。ヤコブの手紙は、信仰生活の実践面においては優れたガイドなのです。「人の怒りは神の義を実現しない」とヤコブは言います。ムッとしてつい軽率に相手を傷つける言葉をぶつけるのは、主の御心ではないということを言っているのです。ヤコブは「神の義を実現しない」と難しい言い方をしていますが、わかりやすくいうとそういうことです。
霊性を重んじましょう、大切にしましょう。そういう話を今日はしました。最後に、霊の働きには二つの側面があることを付け加えます。丁寧に聞かないで、ついうっかり軽率な行動をとってしまう、そういう自分を、神様に許していただかなくてはなりません。そこで神様の憐れみを受けるわけです。これが、まさしくスピリチュアルなことなのです。神の憐れみを受けて許しを与えられるというのは、神の霊の力でしか起こりえないのです。ふたつめは、許された私が今度は御言葉を実践する者になっていくということです。これもまた霊性の働きです。「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。この戒めを実践することは、聖霊の働きによって起こされるのです。聖霊によって許され、みわざを実践する者へと変えられていくことで、人と人が神様の愛と赦しの中に生きるようになり、互いに愛し合う関係へと導かれていきます。私たちはそのように霊的に育まれるのです。