説教「影を生きる」(テキスト版)

説教「影を生きる」
ヨハネ17:1~5
全聖徒主日(2018年11月4日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今日は全聖徒主日。市ヶ谷教会から神様の御許へと旅立って逝った方々を覚えて礼拝しています。全聖徒とは、すべての聖なる人々ということです。ですから彼らは聖なる人になったということを表しています。生前一緒に過ごした時のことを思い起こすと、聖なるという表現がふさわしいのかどうか・・。身近にいた人などは、そんなふうに思うかも知れません。私たちは案外苦い経験のほうが、記憶にしっかりと残っていたりするものです。それでも、そうした一人ひとりを聖なる人として、今日私たちは覚えているのです。彼らを聖なる人と呼ぶことにしようと、私が皆さんに提案しているわけではありません。神がこの方たちを聖なる人としてくださったのです。聖徒たちは皆、神様によって聖なる者とされたのです。

 聖書、特に旧約聖書には人間の一生のはかなさを歌った言葉がたくさんあります。その中でも詩編90編は、人間の一生をその誕生から終わりまでを端的に表現しています。私たちの一生は、たとえ千年続いたとしても、それは昨日から今日へと移りゆく夜の一時。朝が来れば、人は草のように移ろい、夕べにはしおれ、枯れていく。人生はため息のように消え失せる。瞬く間に過ぎて飛び去る。はかない一瞬の命がこのように歌われています。ペトロの手紙でも「人は皆草のよう、草は枯れ花は散る」とあります。命のはかなさを教えられます。

 ところが同じ詩編の8編5~7節は、人間の命を次のようにも言います。「主よ、あなたがみこころに留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。

 人間は神に僅かに劣る者。一瞬でしかないはかない命にも関わらず、人間の命は神にほんの少ししか劣っていないほどに尊い。限りなくはかなく、限りなく尊い私たちの命。人間とは一体何者なのか。このふたつの現実の前に、詩編の作者は、人間とは何者なのかと問わずにいられなかったのです。生きるというところだけを見るならば、人間の命はやはりはかないと思います。「健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎない」という先ほどの言葉に頷く人も多いことでしょう。

 生きるというところだけを見ている人が、どれほど多いことでしょう。生きると言ったとき、誰でも普段の社会生活を思い浮かべます。人間社会に生を受け、家族や友人と過ごし、学び、働き、遊ぶ。そして健康にも気を配りながら、できるだけ自分のやりたいことをやって楽しく過ごす。これが生きるということ。社会を生きるということです。そうして健やかに80年、90年、あるいはうまくいって100年生きられれば、それが人生を全うするということなのです。けれども実際にはなかなかそれは難しいわけです。そしてたとえ100年生きたとしても、詩編がいうように人生はため息のように消えていきます。生きるというところだけを見るなら、やはりどうしてもはかなさはつきまといます。

 けれども聖書はもうひとつのメッセージを、私たちに伝えています。神に僅かに劣る人間と言います。この言葉には途方もなく大きく、限りなく尊い人間の命を見いだすことができます。神ではありませんから、劣っているのは当然です。けれどもそれはほんの僅かなのです。

 なぜそう言えるのでしょう。人間の命が神によって造られたからです。神によって与えられた命を、私たちは生きているからです。それだけではありません。もっと踏み込んだ言い方をすることもできます。神に僅かに劣るという言葉よりも、もっとぐっと神に近寄った言い方をすることもできます。

 創世記(1章27節)はこう語ります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。かたどってという意味の言葉は、ヘブライ語ではツェッレンと言います。このヘブライ語にはもうひとつの意味があって、「薄暗い」とか「影」という言葉でもあります。「かたどって」という日本語とずいぶんと違うと思うかもしれませんが、そうでもありません。言い換えてみましょう。「神は御自分の影として人を創造された」。この訳は、人間の命についてもうひとつの見方を私たちに示してくれています。

 人間は神の影として造られたのです。神の影の命を私たちは生きているのです。因みに「かたどって」というのは、英語ではimageという言葉が用いられます。イメージには、この影に近い意味合いがあります。

 自分の命は自分のもの。私は自分の命を生きている。普段そう考えてしまうわけですが、聖書に言わせると決してそうでもないようです。神の影、神様のイメージとして私たちは生きているのです。影ですから本体ではありません。影ですから、やっぱりはかないのです。けれども神様の影なのです。神様の影は、神に僅かに劣る者という表現と、みごとに重なっています。神様の影は、聖なのです。社会の中で生きているときそのようには全く見えなくても、神様にとっては、私たちの命は聖なる命なのです。ですから、遺影の中の人たちは皆「聖徒」と呼ばれるにふさわしいのです。

 イエスは今日の福音書で、永遠の命ということを言っています。そして永遠の命とは、唯一のまことの神を知ることだと言っています。永遠の命という言葉は、社会をあくせく生きているとき、意味をなさない言葉です。なぜなら、永遠を人間は感知することができないからです。永遠の命、それは神様の言葉です。永遠という意味を、人間社会の言葉で表すとするなら、おそらく尊厳という言葉が最もふさわしいでしょう。

 命の尊厳といえばだれもが頷けるぐらいにわかりやすいのです。そして尊厳とは、イエスの言葉でいうならば、永遠の命のことなのです。命の永遠なのです。

 影である私たちは影のようにはかないけれど、神様の影なのです。自分の命を生きているのでなく、神様の後を私たちは生かされているのです。神様がいなければ、影である私たちも存在しえないのです。神様の命を生きているわけですから、僅かに劣る私たちも、確かに永遠の命を生きているのです。

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