説教「マリアに届いた大きな福音」
ルカ1:39~45
待降節第4主日(2018年12月23日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
アベマリアという歌を知らない人はいません。グノーのアベマリアあるいはシューベルトのアベマリアが、すこぶる有名です。どちらも透き通るように美しく心が洗われるメロディです。その歌詞について私も全部を知っているわけではなく、まともにそれを最後まで読んだことはないのですが、それでもただただ旋律の美しさに圧倒されます。なにか聖なるものに包まれるような感覚に浸ります。歌詞はラテン語なので、歌を聞きながらその歌詞に魅了される人というのは、ラテン語を勉強したことがあるごく一部の人だけに限られるでしょう。歌詞はわからなくても、タイトルになっている「アベマリア」、この歌い出しの一言は知らない人がいません。この一言でこの歌が知られているといえます。この一言ですべて事足りるという感じさえします。ソプラノが「アベマリア~」と歌い出す・・・。そのとき清らかな緊張感が走ります。もしもこの曲がメロディだけで、アベマリアのひとことがなかったとしたら、たぶんここまで有名にはならなかったでしょう。それほどにインパクトのある一言、それがアベマリアです。
ところでアベマリアとは何でしょう。マリアはわかります。イエス様を生んだ母親の名前です。ではアベは? アルファベットで書くとAve 。これはラテン語です。辞書で調べると、ちょっと意外なことが書いてあって、「ようこそ」「さようなら」とあります。けれどもこの訳は、グノーやシューベルトが作曲した曲のイメージとは少しかけ離れています。
私が調べたラテン語辞書は小さなものですが、そこにはこのふたつの訳とあわせてもうひとつの説明があり、こうなっています。「Ave Maria 聖母マリアへのラテン文祈祷」。つまりラテン語による祈りの言葉なのだという説明です。たしかにカトリック教会の伝統ではマリアに向かって祈ります。その祈りの冒頭がアベマリア。実際、グノーとシューベルトのアベマリアの歌詞を見ると祈りになっています。アベマリアは、マリアに向かって祈るときの祈りの言葉なのです。ただそれでも疑問は残ります。Aveとはいったい何なのでしょう。
いわゆる受胎告知と言われる天使ガブリエルの言葉は、今日の福音書の前にあります。そこを見てみると、天使ガブリエルがマリアに告げる有名な言葉があります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。「おめでとう」という言葉がここにあります。これのギリシャ語は動詞の命令形になっていて、直訳すると「喜びなさい」。いきなり「喜べ」ということですが、丁寧に言うと「嬉しいことがありますよ。喜んでください」。そんなニュアンスです。それで「おめでとう」という訳になるのです。英語でもGreetingsとなっています。こんにちはという感じです。
問題のラテン語Aveですが、カトリック教会が大切にしているラテン語聖書にこの言葉があります。このギリシャ語の「喜べ」にあたる単語が、ラテン語聖書でAveと訳してあります。というわけで、Aveとはいろんなニュアンスを含んだ喜びを表す一言だということができます。AveとMaria このふたつが結び合ったとき、私たちの心も大きな喜びに包まれるのです。
アベマリア。他の言葉はなくてもいい、そんなことを先ほど申し上げましたが、作曲家にもそう思った人がいました。カッチーニという人が作ったアベマリアには、歌詞にこの一言しかありません。
今日の福音書のみことばは、マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けて、恐れと不安を覚えつつも不思議な喜びに包まれて、お告げがあったことを叔母のエリザベトに打ち明けたときの言葉です。そのときエリザベトは聖霊に満たされてマリアにこう言います、「あなたは女の中で祝福されたものです」。このひとことは、マリアのその後の人生にとって極めて大切でした。
天使のお告げが最初のきっかけだったことは、いうまでもありません。お告げにマリアは恐れおののき、結局遠くユダの地まで旅することになります。想像するに、おそらくこの時点では恐れと不安のほうがはるかに勝っていたのではないでしょうか。「喜びなさい」と天使に言われても、難しかったのではないでしょうか。マリアに喜びの表情をまだ見て取ることはできなかったでしょう。
恐れと不安を喜びと希望に変えたのが、エリザベトでした。「あなたは女の中で祝福されたものです」。エリザベトのこのひとことが恐れを喜びに、不安を希望に変えたのです。エリザベトの祝福の言葉を、私たちは決して軽んじることはできません。
エリザベトの言葉というのは、肉の言葉、人間の声です。そのことを強調しなければなりません。天使のささやきではありません。夢や幻想の中で聞こえてきたか不確かで、かすかな響きではないのです。力強い肉声です。人間エリザベトの声だったのです。
天使のお告げよりもむしろこの言葉、人の声、肉声のほうが私たちには身近です。肉声なら私たちにも同じことができるはずです。「あなたは女の中で祝福されたものです」という人の声、肉なる声が、マリアの恐れと不安を喜びと希望に変えたのです。
エリザベトのこの言葉、人間エリザベトの声で、マリアは生きる勇気をもらったのです。そして身に憶えのないお腹の中の子どもを産もうと、心を決めることができたのです。今日の福音書のみことばのすぐ後、ルカによる福音書一章四六節から有名な歌、マリアの賛歌があります。マリアの喜びの歌です。我が子イエスを産む喜び、天使ガブリエルのお告げを受けた喜び、神様が共にいてくださることを確信した喜びの歌です。
聖なるものを思い描くとき、肉なるものは邪魔なような気がします。「肉なるもの」と言ったとき、清らかで透明な世界を連想する人は多分いないでしょう。すでに「肉」という言葉にはなにか不完全で、翳りがあり欠点があるというイメージがまとわりついています。肉なる人間である私たちが実際不完全で欠けがあるので、これは仕方のないことです。この不完全で欠けがあるという肉の特性は、それを神様との関係で見ていくと、どうしても罪ということを考えねばならなくなります。
けれども肉である人間は、肉であるからこその良さと力、賜物を持ち合わせているのです。今お話したエリザベトの祝福の言葉がまさにそうです。「あなたは女の中で祝福されたものです」。肉なる人エリザベトからの肉なる声だったからこそ、それが同じ肉なるマリアに届いたのです。そしてマリアのなかでこだまして、喜びへと変えられていったのです。
喜びの知らせをもたらしたのは、エリザベトの肉の声でした。私たちにも備えられている肉なる声です。エリザベトのように祝福を届ける声に、私たちもなれるのです。恐れや不安を、喜びに変える賜物を私たちは神様からいただいているのです。
体をもっている私たちは、その体ゆえに何かと不都合があります。制約があります。肉であるがゆえにできが悪く、過ちを犯します。罪を犯します。神様の御心に背いてしまいます。けれども肉であるがゆえの賜物が、私たちには与えられているということも、忘れてはならない事実なのです。
イエス・キリストは神の子として生まれました。母マリアから肉体を取って人となりました。私たちと同じく肉をまとって、主なる神から遣わされました。それが救い主イエス・キリストです。これを受肉といいます。神が肉をまとったということです。神が肉なる命を良しとされたのです。そして肉なるイエス・キリストを通して、神様は御自身を示し、神の愛をこの世にお伝えになったのです。神の愛が私たちに伝わったのはキリストに受肉が起こったからなのです。
イエス・キリストによって、肉なる私たちでも聖なるものにお目にかかれるようになりました。聖なるものとの接点をいただいたのです。それが実現したのは、私たちが聖なるものになれたからではありません。その逆であって、聖なる神が肉をまとってイエス・キリストとなって、私たちのただ中に遣わされたからなのです。その時それをとりなしたのがマリアでした。マリアが聖なるものとの触れあいを作ってくれたのです。
Ave Maria この短い一言で、私たちの心は聖なるもので満たされます。ラテン語の歌詞はわからなくても、これだけで聖なる空気に触れられる気がします。