説教「離れるペトロ、近寄るイエス」
ルカ5:1~11
1コリント12:12~26
エレミヤ1:9~12
顕現節第4主日(2019年1月27日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 先週の福音書を思い起こすと、イエス様がガリラヤで伝道を開始したことを告げていました。「 イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。4章14節ではこのように告げています。ですからイエスの宣教というのは、会堂で神様のお話をすること、すなわち説教だったのです。きっととても良い説教をされたのだと思います。

 「霊の力に満ちて」とあるのは、その直前のところでイエスがサタンの誘惑を退けるという出来事が紹介されていますが、その前にイエスが聖霊に満たされたということが記されています。またさらにもう少し前に遡ると、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた話が出て来るのですが、そのときも鳩のような聖霊がイエスに下ったとあります。このふたつのとても際だった、そしてよく知られているイエスに起こった大事件は、いずれもそこで聖霊が大きな役割をしていたのです。それらを受けて、14節に「イエスは霊の力を受けて」となっているのです。洗礼を受けた後、聖霊が絶えずイエスと共にあったのです。

 ここまでは、今日の福音書テキストではなくて、その前段階をおさらいしているわけですが、この一連の出来事の中に、聖霊がしっかりと位置を占めていることを押さえておきましょう。洗礼を受けて聖霊に満たされ、聖霊に満たされたイエスは荒れ野でサタンの誘惑を退けるのです。そして聖霊に満たされたイエスは、今度はガリラヤに戻り、いよいよ伝道を開始していくのです。聖霊の働きを受けて、イエスは確かに変わったのです。それまで一人の人間だったイエスが、神の国を伝える救い主イエスとなったのです。そしてその移り変わりには、聖霊が大きく関わっていたのです。

 今日の福音書に戻りましょう。イエスがいよいよ本腰を入れて伝道活動をし始める様子がここから伝わってきます。ここでイエスはペトロを弟子にします。今日の福音書のクライマックスと言えます。そこでもう少し丁寧にテキストを追っかけて、どうしてこういうことになったのかを考えてみましょう。ゲネサレト湖というのはガリラヤ湖のことですが、イエスが湖のほとりに立っていると、そこに人々が次から次へとやってきていつのまにか大勢の群衆に取り囲まれてしまいます。あまりにも人の数が多くて、押しくらまんじゅう状態になってしまったのです。

 先ほども話したように、もともとイエスは会堂で説教するというオーソドックスなスタイルで宣教していました。今日の場面は会堂ではなく屋外、湖畔です。ここでも宣教活動をしようと思って、イエスは神様の話をするために人を集め、敢えてこの場所を選んだのでしょうか。今でいうならチラシを配り、いついつどこどこで集会をしますから来てくださいと呼びかけて、人集めをしたのでしょうか。それともそうではなくて、今日は湖畔でゆっくり休日を過ごそうと思って、湖のほとりで景色を楽しんでぼーっとくつろいでいたのでしょうか。そんな時突如、思わぬ形で群集が押しかけてきたのでしょうか。どっちなのかはこれだけではわかりません。

 最初イエスは湖畔のほとりに立っていました。ところがあまりにも大勢の人が詰めかけてきたため身の危険を感じて、その場を立ち去ったのです。ふとみるとそこに舟が二艘あって、そこにシモン・ペトロがいました。彼は漁をした後、使った網を洗っていました。他の人々と一緒にイエスのお話を聞こうとしていたわけではないようです。そもそもイエスとペトロの出会いというのは、この時の声かけが初めてではないと考えられます。というのは、ルカによれば、今日の福音書の少し前のところで、もうすでに二人は出会っていると思われる出来事が書いてあるからです。

 一息つくために湖畔に来たのか、それともここでも宣教しようと人を集めたのか。そのあたりはわかりませんが、確かなことがひとつあります。それは「こりゃたまらん」と思って、イエスは群集から逃れたことです。逃げてペトロに頼んで舟に乗り込ませてもらったのです。

 イエス様はその時きっとこう思ったのではないでしょうか、「とてもじゃないが一人では無理だ」。そこでイエスはペトロとその仲間たちに声をかけるのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。神の国を伝える仕事を手伝ってほしい、一緒にやろう、ということです。人手が欲しかったのです。もっともっとたくさんの人に神の国を伝えたい。ペトロならきっと仲間をたくさん集めて協力してくれるだろう。・・・話の展開はだいたいそんなところではないでしょうか。そう考えるとイエスがペトロを弟子にするということは、どこにでもありそうなお話なのです。

 ただしこの中には、神の子イエスならではの逸話も挿入されています。その日ゼロに等しかった漁獲量でしたが、イエスが言ったあたりに網を投げると、舟が沈みそうになるぐらい大漁に魚が捕れてしまいます。プロの漁師だったペトロたちの面目が丸つぶれになりました。

 けれどもここからペトロやヤコブ、ヨハネのリクルートが始まっていくのです。そこで今度はイエスのリクルートに注目していきます。ここにあるのはイエスの一言だけです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。注目したいのは、この一言の前と後にあるペトロの言葉です。自分たちがやってもだめだったのに、イエスに従ったら夥しい大漁でした。それを見てペトロはこう言います、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。

 ペトロは自分とイエスの歴然とした違いに大きなショックを受けたのです。自分は漁師、この人は神の言葉を語る人。二人の間に自ら一本の線を引いたのです。自らイエスと距離をとろうとしました。「あなたとわたしは違う」。捕れなかった魚がイエスのおかげで大漁になり喜んでもよさそうだったのですが、そうではありませんでした。この出来事は、ペトロにとってイエスとの決別となってもおかしくなかったのです。

 ところがイエスは、それとはまったく逆の見方をしていました。「私から離れてください」と言ったペトロに対して、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。そう言ってイエスは、ペトロにむしろ近付いていったのです。

 ペトロが遠ざかろうとしました。そうしたらイエスが近寄ってきたのです。召命あるいは神の召し出しなどとよく言われますが、それは、イエスとペトロの間で起こったこの出来事なのではないかと思います。私自身が牧師への道を歩み出した時もそうでした。今日の旧約聖書に出て来る預言者エレミヤにも当てはまります。エレミヤに主の言葉が届いたとき、エレミヤは思わず次のように答えます、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。エレミヤも主から遠ざかろうとしたのです。すると主は答えてこう言います、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところに遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな」(エレミヤ書1章7節)。離れようとするエレミヤを、主はとらえたのです。

 召命という用語はもっぱら教会の言葉で、特にみことばを宣べ伝える教職者に対して使われますが、この用法を世俗社会にも当てはめて使ったのがマルティン・ルターです。ルターは教会の仕事に限らず、世俗の一般的な職業も神の召命(ラテン語でvocatio)であると教え、これをドイツ語でBerufと呼びました。今日でもこれは仕事という意味で使われます。だれであっても、特定の場所、働きに神様によって召されているのだとルターは教えました。これも極めて宗教改革的な言葉でした。

 もしもこの考え方をもう一歩推し進めることが許されるなら、私はこう申し上げたいです。神様を信じていること、信仰が与えられたこと、その結果こうして神様を礼拝するということ、そのために日曜日に教会にやって来ること。これらもまた召命と呼ぶにふさわしいのです。神様に召されて私たちはここにいるのです。もっと言うなら、命を与えられ、私たちがこうして生きているということ、これもまた神様に召し出されているのです。召し出されたから生きているのです。命を与えられ生きているということが、すでに召命なのです。一人一人にルターがいうBerufが与えられているのです。ペトロがイエスから声をかけられたこと、エレミヤが神から呼ばれたことと変わりありません。神様を証しする、神の愛をこの世に示す、そのために私たちは神様に必要とされ召されているのです。

 「わたしから離れてください。罪深い者ですから」「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」、ついそう言いたくなります。けれどもその必要はありません。自分のことをどう思おうと、神様のほうから私たちへと近付いてくれているのですから。自分がどういう人間かを問わなくていいのです。ペトロのように、何も言わずに従えばいいのです。