説教「カリスマはどこから」
ルカ6:27~36
1コリント14:12~20
創世記45:3~15
顕現節第6主日(2019年2月10日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 先週に引き続き今日のみことばも、イエスがガリラヤ湖近くの小高い丘陵地で、たくさんの人々に対して祝福を語る場面です。愛するとはどういうことかを、大変わかりやすく人々にお話しています。確かにわかりやすいのですが、だからといって「心がほっとするいいお話を聞いた、慰められた」。そういう感想をもつ人は誰もいないでしょう。むしろこれを聞いた後、私たちは言葉を失うしかありません。

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。

 これは心がほっとするようないい話では全然ないのです。むしろぐさりと心に突き刺さってきます。イエスは人々に向かって、敵を愛することが愛するということ、あなたの悪口を言う人に祝福を祈ることが愛するということなのだから、あなたもそういうふうに「しなさい」と教えるのです。

 なぜイエスはこんなに過激なことを言うのでしょう。どうして人々は無茶なことを聞かされるのでしょうか・・・そういえばイエスは会堂で説教した時でもそうでしたが、聞いた人たちの反応はふたつに割れました。「権威あるすばらしい教えだ」と言う人と、「とんでもないことを言うやつだ」と言う人がいたのです。イエスは律法学者やファリサイ派を激しく責めたのです。今日のこのメッセージも、これを聞いて感動する人と激怒する人がいたことでしょう。イエスのお話というのは、決して生ぬるい、心が和らぐちょっといい話ではありません。むしろかなり激しかったのです。

 「そうしなさい」と、命令としてイエスが私たちに教えています。「とんでもない」、「あり得ない」。私たちはイエスの言葉を聞いて、そんなネガティブな反応をしてしまいます。漁をしているペトロにイエスが声をかけ、「私に従いなさい。人間を取る漁師になりなさい」と言った時、ペトロは「私から離れてください」と言ってイエスを遠ざけようとしました。私たちがイエスの言葉を聞いてそれに耳を塞ぐのは、ちょうどその時のペトロの反応に似ています。

 「~しなさい」という言い方は、日本語で使われる場合というのは親が子どもを叱るときぐらいでしょうか。あるいは厳しい規律で統制されているような組織、たとえば軍隊のようなところもそうかもしれません。会社や学校でもそこそこあるでしょう。けれども教会ではほとんど聞くことがありません。「~しなさい」という表現で言われると、少し怖じ気づいてしまいます。欧米の言語ですと、もっと頻繁に命令文が使われます。日本語では「~してください」という言い方でも、欧米の言葉だと命令文で言えてしまうのです。

 イエスが人々に愛を教えています。宣教のわざとしてイエスは神の国について話し、その中で神様の愛を語っているのです。ですからこの愛はほかでもない、神様の愛そのものなのです。人の世界の話題のなかに、イエスは神様の愛を当てはめて話しているのです。私たちがこの言葉を聞く時まず最初にしたいこと、それはこの愛を自分が実行できるかできないかということでなく、この言葉のなかに神様をみることです。イエスが語るこの言葉のうちに、神ご自身が表されているのです。

 その次に聞き取りたいこと、それはこの神様の愛が、罪人である私たち一人ひとりに向けられているということです。今日の聖書のみことばにそのことがはっきりと表れているわけではありませんが、36節から少し届いてきます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」。憐れみ深い天のお父様は、私たちに憐れみ深いのです。私たちのことを憐れんでくださっています。その憐れみを私たちは神様からいただいているのです。     

 それゆえ「あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」と、イエスが人々に諭すのは当然のことと言えます。「主よ、憐れんでください」と祈って神様の憐れみを求める私たちは、だからこそ憐れみ深い者になりなさい、という神の言葉をもしっかり受けとって、そのように生きることを心がける、これは文字通りそのまま命令文として受けとりたいのです。

 憐れみ深く生きることは、決してたやすくはありません。敵や憎むべき者を前にして、その人に対して憐れみ深くあれというのは、人間の倫理に照らしても、なにもそこまでしなくてもということになるからです。

 今日の使徒書は、コリント教会に宛てて書いたパウロの言葉です。コリント教会というのはパウロが開拓伝道して造った教会で、規模的にもしっかりしていてパウロが大好きな教会でした。ところが、パウロが伝道旅行に出かけてコリント教会からいなくなったと思ったら、途端に教会が乱れ始めたのです。手紙をずっと読んでいくと、教会が乱れた原因がひとつやふたつではなかったことがわかります。かなりありました。指導者争い、聖餐式のやり方、風紀の乱れ、偶像礼拝などなど。中でも特にパウロを悩ませたのが異言の問題でした。今日のところがまさにそうです。異言というのは聖書独自の現象と言ってもいいでしょう。聖霊に満たされて、知らない国の言葉で突然祈り出すことを意味します。プロテスタント教会には異言を唱えることを強調する教会があります。そして異言を語れることこそ、あなたが聖霊を受けたしるしだと解釈します。

 こういう話の展開になるとどうなるでしょうか。では異言を語ったことのない者は聖霊を受けていないのか?という話へと発展します。コリントの教会で、まさしくそういう話が持ち上がったのです。「あなたはまだ異言を語れないから聖霊を受けていない」。そういう教えが教会のなかで広まったのです。パウロがいなくなったあと、教会のリーダーになった人物がおそらく異言を語れて、「あなたも異言で祈れるように熱心に求めなさい」という指導をしたのではないかと思われます。遠く離れたところにいるパウロにとっては、手紙を書く以外どうすることもできなかったのです。

 ところで異言などない、と異言を否定することは正しくないと私は思っています。聖書に書いてあるわけで、今日のところにあるようにパウロ自身も異言を語れるからです。

 コリント教会は異言の問題でぎくしゃくしてしまったのです。ことは霊的な問題であり、信仰にも深くかかわってきます。もしもこの問題が大きくなると、教会が壊れてしまいます。パウロはそのことを心配したのです。

 パウロがとった立場というのはとても明解です。それがコリントの信徒への手紙(一)14章19節の言葉、「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」。異言で言われても、それが人にわかってもらえなければ、なんにもならないではないかと訴えるのです。

 パウロが最も重んじたことが12節に書いてあります。「霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」。異言で祈れるようになりなさいと教える人たちというのは、結局のところ霊的な賜物を熱心に求めているわけですから、もしそうであるならば、ぜひその賜物を教会を造り上げるために用いてください、と呼びかけているのです。異言が語れることは何の自慢にもなりません。パウロはこのようにコリント教会を諭しています。教会を造り上げるということを、パウロは重んじたのです。この点、私もそしておそらくみなさんもまったく同感ではないでしょうか。

 パウロはこのお話をする直前に愛(アガペ)について語っています。有名なコリントの信徒への手紙(一)13章です。13章で愛について触れたあと、14章へと移ります。そして14章の最初で「愛を追い求めなさい」と言います。14章は、決して異言について言いたかったわけではありません。ここでパウロは、コリント教会を造り上げてほしいと訴えたのです。そのために愛アガペを求めるようにと呼びかけたのです。異言を強調したところで教会は造れない、かえって分裂してしまうだけだ、教会を造り上げるのは神の愛、アガペ以外なにものでもないのだと訴えているのです。

 カリスマというギリシャ語は、今では日本語にもなっています。「カリスマ美容師」というのを聞いたことがありますが、これは他の人にはまねのできないぐらいに秀でた才能をもつ人のことを、そう呼んでいるのだと思います。「カリスマ」はキリスト教の言葉で聖霊の賜物のことをいいます。今日のところでもパウロはカリスマという単語を何度も使っているのですが、非常におもしろいことにパウロはカリスマという言葉を異言には用いていないのです。パウロは異言を霊的な賜物とみなしていないのです。パウロがいう霊的な賜物は、いつも神の愛から始まります。そしてカリスマは秀でた才能ではありません。神様からいただく賜物のことです。ですからいつもそれは神の愛から起こります。敵をも赦す愛、憎むべき者に祝福を祈る愛から、カリスマは起こります。イエスはこの愛を、ガリラヤ湖畔の丘の上で語ったのです。