説教「たわ言でなかった復活」
ルカ24:1~12
復活祭(2019年4月21日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
昨年、ドイツの首相アンゲラ・メルケルの本が翻訳出版され話題になりました。「私の信仰」という本です。書き下ろしではなく、いろんなところで行った講演集をまとめて一冊の本になっています。タイトルからしてとても信仰的です。そのとおり、まさしく彼女の信仰について書いてある本でした。ドイツ語のタイトルでも「私はキリスト教の考え方を信じています」となっています。現役の政治家が、自身の信仰について、しかもこのようなはっきりと明言したタイトルで表明するということは、極めて珍しいと言えるのではないでしょうか。なぜならそうすることで、今ドイツ国内でも増えつつあるイスラム教徒とは、私は違う立場だということを明確にするからです。けれども敢えてそうしたのでしょう。もちろん政治的な配慮もそこにはあったと思います。ちなみに、本の中では彼女が所属する教会のことをプロテスタント福音主義教会というふうに翻訳してありますが、メルケルさんはベルリンにあるれっきとしたルーテル教会員です。
メルケル首相は、2005年以来の長期政権についているわけですが、この間にドイツ政府は原発廃止とか難民受け入れといったかなり思い切った政策をとってきました。反対もありますが、彼女のリーダーシップでそれらを実行してきたわけです。以前から私もこうした政策は、彼女のキリスト教信仰に基づいているのではないか、メルケル首相は一般的には、熱心なクリスチャンなのではないかとずっと思ってきました。けれども自身の信仰に関しては、これまであまり表にしませんでした。政治家としてはむしろそれが普通のことだと思います。ところがこのたび、現役の首相として自身の信仰を表明する本を書いたわけです。しかもそれをとても強く打ち出しています。
本に書いてあるひとつのエピソードを紹介したいと思います。インタビューで彼女は質問を受けました。インタビュアーがこう尋ねます。「もしも私が次の首相に就任するとしたら、あなたは私にどんなアドバイスをくれますか」という質問でした。メルケル首相はこう答えました。「ルター訳聖書の箴言16章18節に書いてあります」。敢えてルター訳聖書というのです。そこに何が書かれているかというと、「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊」(新共同訳聖書)。驕り高ぶりを戒めるこの聖書の言葉は、彼女の信仰と政治姿勢を表しているなあと、私は思ったのです。
今日はイースターです。主イエスの復活を喜ぶ日曜日です。「主イエスは、死から甦ったのです」と、私たちが信仰を高らかに表明する日です。もちろん普段の日曜礼拝でも、イエスの復活について語りますし、毎回行っている信仰告白でも復活を告白しているわけですが、復活祭、イースターは、特にこの一点に集中し、そのことを共に心から喜び、祝うことのできる晴れの日なのであります。言い替えるならば、イエスが復活したということを事実として受け止めて、素直にそれを信じることが私はできている、そのことを喜び、感謝するのです。
教会から一歩外へ出たら、「私は復活を信じます。永遠の命を信じます」、こういう言葉を発しても、世間ではまともに受けとってくれません。なにを馬鹿なことを言っているの。頭がおかしくなったんじゃないのと言われてしまいます。けれどもそれは科学が進歩した21世紀だからではありません。今日の聖書にも出てきます。10節から11節にかけて「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。イエスといつも一緒にいた弟子たちがそう言ったのです。「私は復活する」という話をそれとなく聞いていた彼らでさえ、イエスの復活を信じることができなかったのです。実際、復活という出来事はそういうことなのです。信じる以外に受け入れる方法はないのです。科学的に証明できるような話ではないのです。
復活があったから、イエス・キリストの教えは広がったのです。復活がなかったら、イエスの教えは消えていたでしょう。パウロもそのことを証しています、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。とてもストレートな言い方です。パウロ自身がコリントの信徒への手紙(第一コリント15章14節)でそう語っているのです。確かにそうだと思います。イエスの復活が起こったから、神の言葉は広がったのです。主イエスの復活はキリスト教のビッグバンだった、そういう言い方をしてもいいと思います。
もしもイエスの復活がなかったならば聖書もなかったでしょうし、そうなるとイエスの教えもうたかたの如く消えていたでしょう。キリストの言葉は、この世で光となってたくさんの人々を導いてきました。暗闇でほのかに灯るろうそくの灯のように、私たちの心を照らし、あたためてきました。そうした信仰の灯の主役は民衆です。私たち一人ひとりの小さな信仰です。大きな権力ではありません。信仰の力は、大きな力で一度ですべてをひっくり返してしまうのではありません。小さな心が、小さな愛が時間をかけて少しずつ広がります。一輪の花が次々と咲くように広がるのです。キリストの言葉によって、たくさんの小さな花が咲いたのです。復活がなかったなら、そうした花々の広がりがなかったかもしれないのです。復活があったから、イエスの言葉が残り語り継がれて、小さな花々が咲いたのです。
「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊」。箴言のみことばを座右の銘として、メルケル首相は驕りと高慢になるなと自身を戒めて生きてきました。それですべてがうまくいくというわけではありません。けれども聖書のみことばが彼女を支え、そこに立ちつつ揺るがない政治姿勢を貫いてきました。たとえイエスの教えを軸にしてそのとおり考え、行動することができたとしても、すべてがうまくいくわけでもありません。バラ色の人生が約束されるわけでもないでしょう。けれどもメルケル首相のようにイエスの教えを基として、揺るがぬ信念をそこに据えることができるとしたら、なんと幸いなことでしょう。
命の礎、生きる支えとして人を導いてきたイエスの教えは、復活から広がりました。そこから始まったのです。そしてイエスの教えは、私たちにも小さな花を咲かせてくれます。それぞれ与えられた場所で、自分なりに楚々と咲かせることができるのです。この目の前の事実をきょうこの日、復活祭で捉え直したいのです。主イエスの復活がたわ言ではなかったことが、私たちにもわかります。