説教「第三のお祭り」
使徒言行録5:12~32
創世記11:1~9
聖霊降臨祭(2019年6月9日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
イースター後の日曜日、私はここまで使徒言行録をもとにお話をしてまいりました。イエスが復活した後、そして復活したイエスが弟子たちに現れた後何が起こったのかを、ルカが使徒言行録に詳しく書き留めてくれたのです。
そして教会の暦はきょうから新しくなりました。聖霊降臨祭といいます。「祭」という言葉があてがわれていることからも、この日が教会の暦の中でも特別ということがわかります。祭という字を使ってあらわす礼拝というと復活祭があります。そして降誕祭があります。
復活祭はイースター、降誕祭はクリスマスですね。私たちもいつの間にか日本語で言わずにカタカタのほうが言いやすくなっていますが、きょうのお祭り・聖霊降臨祭と合わせて、この三つがキリスト教会の三大祭りであります。そして聖霊降臨祭のことも、私たちはいつの間にかカタカナでペンテコステと言うようになっています。初めて聞く人には聞き慣れないと思いますが、このカタカナはいったいどこから来たのでしょうか。きょうの聖書日課でも主役は使徒言行録ですが、このカタカナは、きょうのテキストから来ているのです。
突然人々がいろんな国々の言葉で話し始めるという事件が起きたのです。それが起きたのが五旬祭の日であったとあります。五旬祭のことをギリシャ語でペンテコステと言います。いつの頃からか、このお祭りの名前をそのまま採用して、聖霊降臨祭のことをそう呼ぶようになったのです。ですから五旬祭もしくはペンテコステというのは、もともとはキリスト教の祭礼ではなく、ユダヤ教の祭礼です。それがキリスト教の祭礼の名前にもなってしまったのです。二つは異なる祭りなのです。キリスト教のペンテコステは五旬祭ではなく、聖霊降臨祭です。このあたりがちょっとややこしいですね。
さきほどペンテコステが、三大祭りのひとつだと言いました。なぜならここに大きな節目があるからです。その節目とは教会の時代が始まったという節目です。教会に集まる私たちも、聖霊降臨後の時代を生きているのですが、その始まりがきょうのテキスト、使徒言行録2章です。
ここまで使徒言行録をずっと読んできましたが、その中心人物はパウロでした。パウロがすぐれた国際感覚をもった人であり、そうした才覚が役にたって、彼は異邦人にイエス・キリストの福音を伝えたのです。ユダヤ人ではない人、外国人、ヘブライ語でなく他の国の言葉をしゃべる人たちに向けて、イエスの救いの知らせを伝えたのです。
きょうの出来事は、とても不思議な現象です。人々が突然知らない国々の言葉でしゃべり始めたのです。この不思議な出来事が、神様の出来事として、私たちに何を語りかけているのかを考えなければなりません。不思議というだけで片付けたくはありません。世の中に不思議な現象はたくさんありますが、なぜ突如外国語を話し出すという突飛なことが起こったのでしょう。他の不思議な現象でもよかったのではないかとも思えるのです。
言葉というときょうの旧約聖書、有名なバベルの塔のお話が思い浮かびます。知恵がついた人間が高い塔を建設し始めます。どんどん高く建てていき、このまま神様のいる天国まで行こうとしたため、主なる神様が人間の言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられないようにしました。この世界にたくさんの言語がある理由を、聖書はそう説明します。たくさんの外国語、それによる言葉の混乱をもたらしたのは、実は神様だったということになります。言葉が乱れたために、人々の意思の疎通が難しくなります。意思の疎通ができなくなれば、お互いに理解することが難しくなり、たくさんの誤解が生まれることになるのは避けられません。そして歴史は、事実そうなったのです。外国と呼び、外国人、異邦人と呼び区別するようになりました。パウロは、そのわかり合うことが難しくなった外国人たちに、イエス・キリストの福音を伝えに行ったのです。
そしてペンテコステが起こりました。場所はエルサレムです。エルサレムの人たちは都会人ですからこう思ったのではないでしょうか。ガリラヤ弁しか話せない田舎者が、どうしていろんな国々の言葉を話せるんだ? しかもお互いに何の不都合もなく会話しているではないか。閉ざされていたはずのコミュニケーションが戻っていきます。バベルの塔のとき、神によって閉ざされたコミュニケーションが、聖霊の力によって戻ってきたのです。ここが大切です。
やがてパウロが現れて、回心の体験を経てパウロは、遣わされます。誰にかというとユダヤ人にではありません。外国語を話す外国人たちに遣わされたのです。言葉の混乱はもはや問題になりません。言葉の違いは障壁にはなりません。イエス・キリストの福音は、世界中の誰にでも伝えられ、受け入れられる言葉になったのです。ですからペンテコステの出来事は、イエス・キリストの福音が世界の人々が聞いてわかる、世界の人たちに伝えねばならない救いの言葉だということを、象徴的に物語っています。
異言という現象に目を奪われてしまいますが、私たちがもっと注目すべきは聖霊です。聖霊の力です。聖霊が注がれて人々は異言で語り出したのです。そして聖霊の力は、異言でクライマックスを迎えたら、その後、萎んでいったわけではありません。そこからさらに大きな事が起こっていくのです。
冒頭で、ペンテコステが節目のときだということを申しました。そしてペンテコステが節目となって教会が誕生した、と言いました。ここまで私は使徒言行録13章、14章から説教してきて、パウロの伝道活動について触れてきました。パウロが各地へ出かけていって教会を作ったのです。そしてきょうの聖霊降臨祭を迎えました。よく考えると、これだと順番が逆転していますね。時間的な流れで考えると、まずペンテコステが起こり聖霊の働きが示されて、次にパウロが現れ、そこから教会が誕生していったと考えたほうが正しいのかなという気がします。時間的な順番はどうでもいいことです。どうでもよくないのは、聖霊と教会を切り離すことはできないということです。キリスト教会は、ペンテコステから生まれたのです。聖霊が生み出したのであります。ですから教会は聖霊が働いているところであり、聖霊が働いているから教会は教会なのです。
教会というと私たちはどうしても建物としての教会を考えてしまいますが、本当は建物ではありません。教会というのは人の集まりのことです。聖書に出て来るエクレシアというギリシャ語が教会という日本語になりました。この言葉の意味は、「神に呼び集められた者たち」です。つまりクリスチャンの集まりのことです。教会堂があってもなくても、そこにキリストを信じる人たちが集まっていれば教会なのです。現に、使徒言行録に登場する初代教会はみんなそうです。ひっそりと誰かの家に集まって、イエス様を礼拝し、パンを割いてキリストを覚えていたのでしょう。それが教会です。
以上のお話をまとめると、教会を教会たらしめるのは二つあります。ひとつは聖霊です。そしてもうひとつは、キリストを信じる人々が集っていること、この二つです。パウロはこの二つが教会を作っているということを、コリントの教会の人たちに伝えています。コリントの信徒への手紙一12章3節、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。聖霊の働きがわかるのは決して異言だけではありません。「イエスは主なり」という信仰告白ができる人には、聖霊が注がれているのです。その信仰告白がなされているところには聖霊が生きているのです。そしてそれが教会なのです。
パウロはエフェソの信徒に対しても、これと同じメッセージを伝えました。別の言葉で伝えています。教会とは何なのかという角度から、次のように述べています。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です」。キリストの体としての教会。教会はキリスト御自身のからだだという説明は、私たちをぐいっと前のめりにさせてしまうほど、具体的な言い方だと私は思います。キリストにつながる私たちは、キリストの体とつながって生きている、もっと踏み込んで、「私たちはキリストを生きている」、そう言っていいのです。
三大祭り。最初の祭りがイエス・キリストが生まれたクリスマス、二番目の祭りがイエスの復活を祝うイースター、そして三つ目が教会が生まれたペンテコステです。教会につながる私たちは、キリストの体の一部分です。私たちはイエス・キリストに生かされ、イエス・キリストと共に生き、そしてイエス・キリストを生きているのです。