説教「心乱すマルタ、笑うサラ」
ルカ10:38~42
創世記18:1~14
聖霊降臨後第7主日(2019年7月28日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
 
 ルカ福音書のマルタとマリアのお話から、きょうのみことばを聞いてまいりましょう。二人の姉妹マルタとマリアは、ベタニアに住んでいました。ここはエルサレムの東3kmという位置にあり、イエスがエルサレムを訪れたときはここでお世話になっていたようです。二人がイエスとどこでどのように出会ったのかは何も書いてないのでわかりません。

  ルカ福音書では38節にさらっとこう書いてあります。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」。ルカは、「ある村」と言っているだけでベタニアという町の名前を書いていません。ベタニアという村のことを知らなかったわけではなく、ルカ福音書で二度ほど言及はありますが、二人の姉妹がこの村の人だということは知らなかったのか、それともあまり関心がなかったのかもしれません。この文章からは、イエスと二人がどれほど親しかったのかはわかりませんが、確かなことは、二人はすでにイエスのことを知っていたし、この方がとても大切な人で、神の国の福音を告げ知らせに来た人だということはわかっていました。すなわち二人にとってイエスはとても大切なお客様だったのです。

 大切なお客様をお迎えした二人の姉妹はまったく別の行動をとりました。マルタはお客様のおもてなしに尽くしました。一方マリアは、イエスの足もとに座って、イエスの話にじっと聞き入っていたのです。とても対照的な行動をとった二人でした。性格が違うということなのかも知れません。一人はよく動き、もう一人はじっとしているタイプ、そういうふうにいうこともできます。

 私はここを読むといつも思うのですが、そもそもなぜルカはこの話を福音書に書いたのでしょうか。話題としては実に些細なことです。福音書に記録するほどのことなのか、と思います。どこの家庭でもあるようなちょっとしたきょうだいげんかみたいなものです。そしてそのきょうだいげんかをイエス様が間に入ってマルタをなだめたというだけのことなのです。出来事だけに注目すればそういうことです。けれどもこのエピソードは、不思議なことになぜかとてもよく知られるようになったのです。市ヶ谷教会の女性会にはマルタの会という名前がついています。私はその由来を聞いたことはないのですが、ここから名前をとったことは間違いありません。「私たちはマルタなの」、そういうことなのだと思います。そこできょうの説教はマルタに焦点を当てたいと思います。

  マルタはおもてなしをするのです。甲斐甲斐しく一生懸命イエス様のおもてなしに尽くすのです。ごはんの支度をし、ベッドメイキングをし、掃除をし、洗濯をし、子どもたちが散らかしたおもちゃを片付けて・・。大切なお客様をお迎えするためにしなければならないことをリストアップして、それをひとつひとつ消していく。忙しいなんて言っている暇もないぐらいに立ち働いています。ただ気になっていることがひとつありました。手伝おうとしない座っているだけのマリアのことです。私が忙しくしていることをわかっているくせに、全然手伝わないでイエス様の話をただ聞いているだけ。チラッとマリアのほうをみると、イライラして、忌忌しく思えてならない、腹が立って仕方がないのです。とうとう我慢できなくなり、イエスに訴えます、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。イエス様に言っているのですが、おそらくすぐそばにマリアもいたでしょうから、マリアもマルタのこの一言を聞いたでしょう。聞こえよがしにイエスに言ったというあたりが、一番真相に近いかもしれません。

 マルタは心をとり乱したのです。そこにマリアさえいなければ、自分ひとりしかいないとわかっていれば、おそらくそういうことはなかったでしょう。自分ひとりでするお世話なら、どんなに忙しくともマルタはイエス様のために惜しみなく働いて、イエス様をお世話できたことを、心から喜んだろうと思うのです。イエス様のために奉仕できたことを喜びとすることができたはずです。マリアが何もしないでたたずんでいるのを見てしまったがために心乱され、本来与れたはずの喜びを得ることができなかったのです。余分なことを考えてしまったんですね。人目を気にしたんですね。たったそれだけのこと。そう思うと、ほんとうに惜しいことをしたという気がします。

  これはまさしく私たちの日常レベルの話です。家族の間で、学校の友だちとの間で、職場の仕事仲間との間でしょっちゅう起こる話だと思います。きっと皆さんも経験していることだと思います。マルタはマリアを気にしました。マルタのように人目を気にしたり、他人と比較したりするところに、私たちの心の乱れは起こります。まっすぐに神様をみつめて生きる、イエス様だけをみつめて生きる。それさえできれば、働く喜びを手にすることができるはずです。ただそれはなかなか難しいことです。

 きょうの旧約聖書のお話は、アブラハムのおもてなしです。アブラハムとサラのおもてなしの話と正しく言わなければなりません。三人に対してアブラハムは言いました、「お客様、よろしければ、どうか、僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調(ととの)えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」。その人が誰なのかもわからずにおもてなしをするのです。サラはせっせと食事の支度をしました。・・男性中心社会の時代ですから、家長のアブラハムはただ命令しているだけで、実際動き回っているのはサラと召使いのように思えますが、よく読むとそうではありません。8節にこう書いてあります、「アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」。

 細かいことはもちろんわかりませんが、この間、アブラハムとサラの心が乱れた様子はありません。アブラハムの多少きつい言葉づかいは、あったのかもしれません。けれどもハラスメントと言われるような発言はなかったでしょう。

 アブラハム夫妻の喜びはおもてなしすることにありました。先週の説教で申し上げた言い方ですと、「愛したいから愛する愛」をおもてなしにしたのです。そこから仕える喜びを受けとることができたのです。

 三人のお客様ももてなしを受けて大満足、大いに喜ぶことができました。アブラハムとサラ、そしてお客様たちの間で喜びが大きくこだましました。こだました喜びは、次の一言を呼び起こしました。「あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。

 老人になっていたサラはこれを聞いて、思わず笑います。たぶん冗談と思ったのでしょう。無理もありません。アブラハムは真面目な男ですから、「なぜ笑うんだ、神様に不可能なことは何もないだろう」と言って真剣です。いかにもアブラハムといった感じです。

  楽しい食事の席での団欒のひとときがここにあります。食事をしながらの楽しい語らいの場を想像してみてください。楽しくなれば冗談のひとつふたつは出てきます。

 そこには喜びがこだましているのです。マムレの樫の木の下で、お客の言葉が冗談だったというつもりはありませんが、それを冗談と受けとってサラは思わず笑ったのですが、それは決して不謹慎なことでなく、楽しい団欒の和の中で、軽い冗談として受け止めたときの楽しい笑いのように私には聞こえるのです。

 この食事の席をアブラハムと神の使いだけに用意された聖なる特別な場面と考えなくてもいいのです。どこにでもある楽しい宴席あるいは食卓の様子と考えたいのです。そこで交わした軽い冗談がほんとうにそのとおりになり、イサクが生まれたのです。思いも寄らぬ大きな祝福が、アブラハムとサラに神様から与えられたのです。神様を信じる者は、それを神様の祝福として受け止め、喜び、感謝し、主を褒めたたえることができるのです。