説教「お返しできない人たち」(テキスト版)

説教「お返しできない人たち」
ルカ15:1~10
聖霊降臨後第14主日(2019年9月15日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
 
 このところ読む福音書から聞こえてくるイエスのメッセージは、どうも私たちが日頃から良しとしていることを、ことごとくひっくり返すような話ばかりです。広い方が入りやすいのに「狭い戸口から入りなさい」。先の方がいいと思うけれども「後の者が先になり、先の者が後になる」。お返ししてもらったら嬉しいのに、「お返しができない人を招きなさい、そうすれば幸いを得る」。こういうみことばをずっと聴いてきています。

 そして先週のイエスの言葉を思い出すと、これまでのどの部分よりも厳しい言葉でした。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。イエスに弟子入りを志願する人たちを追い返しているかのようです。8月に入ってからずっとこんな感じで続いています。主イエスから慰めと平安と憐れみを期待している私たちですから、こうしたみことばを立て続けに聞かされるというのはどういうことなのだろうかと思ってしまいます。

 主イエスが言葉で語り、教えた相手というのは、その多くが弟子たちでした。それと大勢の群衆に対してでした。そうでない場合だと、議論や、食事の席の会話、何らかの出来事が起こったときに飛び出した突発的な言葉です。あらかじめ原稿を用意して、その通りにしゃべるというような講演とか説教形式ではありません。そのときその場で思ったこと、感じたことを主イエスはそのまましゃべったのです。

 8月から読んできた一連のイエスの厳しいメッセージは、ルカによる福音書12章から14章にかけて出ています。同じときに同じ場所で話したわけではなく、時も場所も違っていたでしょう。福音書を書いたルカが、ここにまとめるという作業をしたのだと思います。こうした厳しいメッセージを話した背景を推し量ると、イエスはこのときすでに自分自身がなすべきこと、すなわち神様から託されたミッションがしっかりと心の中にあったのではないかと思うのです。イエスはこのときすでに十字架が見えていた、だから口から出る言葉も自ずと厳しい言葉になっていったのではないでしょうか。

 そしてきょう与えられている福音書も、やはり同じ背景から語られたのでしょう。同じ背景というのは、繰り返すならば「後の者が先になる」、「狭い戸口から入る」、「お返しできない人を招く幸い」、「一切を捨ててこそ私の弟子だ」、という手厳しいみことばが出てきた背景と同じという意味です。お話そのものは迷子になった一匹の小羊のたとえ話として知られています。子ども讃美歌にあり時々歌いますが、あのやさしくかわいらしい子ども讃美歌とこのお話が結びつく人も多いと思います。私もそうです。たしかにこのたとえ話には、迷子になった小羊を愛でる神様の愛があります。そうなのですが、きょう私は、このお話もまた、これまでと同じ状況から見てみたいと思うのです。このたとえ話でも、イエスは神の国を同じように語ったのです。

 ではこのお話の背景には何があったのでしょう。このときイエスは徴税人や罪人たちと一緒にいました。彼らはイエスの話を聴こうとしてやってきたとあります。そういうイエスをファリサイ派や律法学者が「罪人と一緒に食事までしている」と批判します。よくあるパターンです。どのタイミングでこの話が出たのか、徴税人と罪人に対してこの話をしたのか、それともファリサイ派と律法学者にしたのか。明らかに後者でしょう。イエスを批判した彼らに対して話しました。

 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。あなたならどうしますか?という問いかけです。ファリサイ派の人たちの答えもふたつに割れたのではないでしょうか。一匹を諦めて九九匹で良しとする人と、迷子の一匹を日暮れまで捜すという人もいたでしょう。捜すことをしないで迷子の羊を見捨てる人は悪い人で、迷子の一匹を懸命に捜す人は思いやりがあって良い人だ。そんな印象をもちやすいと思いますが、それがこのたとえ話の落ちではありません。

 イエスのまなざしはもちろん見失った一匹の羊を見ています。そしてイエスの言う見失った一匹の羊とは、イエスが共に食事をしていた徴税人であり罪人でした。ただ単に数の多い少ないを言っているのではありません。ファリサイ派や律法学者からみた徴税人や罪人のことを、イエスは一匹の羊と言っているのです。イエスからすれば彼らこそ、見失った一匹の羊だったのです。

 このたとえ話のキモは、ルカによる福音書15章5節からです。そこに大きな喜びがあることです。しかも自分だけの喜びでなく、友だちや近所の人々を呼び集めての喜びです。喜びを分かち合うのです。スポーツには団体競技と個人競技がありますが、優勝したとき、金メダルをとったときのことを思うと、やはり団体競技の金メダルのほうが喜びが大きいように思えます。ファリサイ派の人たちにとって罪人は、神の律法を無視して生きている人たちですから、軽蔑の対象でこそあれ、喜びの対象にはまったくなり得ません。しかも、みんなして大いに喜ぶというのは考えられないことです。

  もう一点は、ルカによる福音書15章7節です。「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。ここでふたつの言葉が置き換わっていることに気づいてください。ひとつは羊が罪人に置き換わりました。そしてもうひとつは見つかったということが、悔い改めることに置きかわっています。迷子になっていた羊が見つかったとは、罪人が悔い改めたということなのだというたとえなのです。15章8節からはもうひとつのたとえ、ドラクメ銀貨のお話が出てきますが、こちらでもまったく同じで、一番最後のところで一人の罪人の悔い改めという言い方になってたとえを説明しています。

 一人の罪人の悔い改め、これが見失った羊が見つかること、無くした一枚の銀貨が見つかること・・・。徴税人が罪人がイエスのところにやってくる。そしてイエスの話に熱心に耳を傾ける。そういう場面をちょっと想像してみてください。私にはそれはとても絵になるシーンに思えます。

 「見失った」羊と言ってしまうと、このたとえ話の大切なニュアンスが十分に伝わりません。受け身にして「見失われた」、もっと言うなら「見捨てられた」と言うべきでしょう。彼らは自ら迷子になったのではありません。律法学者たちから罪人と言われ続けて無視された、その結果、一般の人たちからも軽蔑され、しまいには、そっぽを向かれたのです。そしてとうとう社会から弾かれてしまった人たちでした。それが見失われたことの実際です。

 彼らがイエスの話を聴いてどのように悔い改めたのか知りませんが、おそらくそれは我々が普通考えている悔い改めとは、ずいぶんと違っていたでしょう。礼拝の中で、罪の告白をすることが悔い改めだと私たちは思っています。あるいは伝道集会で高名な伝道者が罪の呼びかけをして、それに応えてステージまでやってきて、伝道者に熱い祈りをしてもらう、それが悔い改めだと思っている人もいます。

 けれども、徴税人や罪人とイエスが一緒に食事をしている場面で、イエスがそういうことをしたとはちょっと考えにくい、というのが私の感想です。イエスが語る神さまの話に熱心に耳を傾けて聴いている彼らの姿そのものが、私には悔い改めのように思えるのです。世間は彼らを避けて、見向きもしなかったのだけれど、イエスは彼らに近づき、共に食事をし、神の話をするのです。なぜなら彼らこそ「後の者」だからです。彼らがお返しのできない人だったからです。

 きょうのテモテへの手紙一(1章13節)の中でパウロはこう言っています。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」。かつての自分は、人々に認められた権威ある者で、その権威に逆らう者を徹底的に迫害し、見捨ててきた。けれども今、イエス・キリストに出会ったことで、彼らこそ神に見いだされた者だったとパウロは気づくのです。そこでパウロの悔い改めが起こったのです。自分も罪人だったと初めて気づいたのです。そしてイエスの言葉に耳を傾け始めます。徴税人や罪人たちがそうしたように、パウロもイエスの言葉に聞き入ったのです。悔い改めたのです。そして神様の憐れみを受けたのです。 

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