説教「牢の中のヨハネ」
マタイ11:2~11
待降節第3主日(2019年12月15日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
洗礼者ヨハネは、今牢の中にいます。彼は領主ヘロデ・アンティパスの暴挙を非難して彼を怒らせ、取り押さえられてしまいました。ヘロデ・アンティパスが兄弟の妻ヘロディアを奪ったからです。略奪婚を非難したのです。おそらくそれだけではなく他にもいろいろあったと思いますが、ヨハネは領主ヘロデの逆鱗に触れ投獄され、最後は処刑されてしまいます。
洗礼者ヨハネの立場になって考えるところから、きょうの福音書を聴いてまいりましょう。ヨハネはイエスにヨルダン川で洗礼を授けました。けれどもイエスに洗礼を授けたということ、ただそのことだけを指摘しても特に意味はありません。このイエスこそ、ヨハネがずっと待っていた人、その人にヨハネが洗礼を授けたということをも合わせて指摘しておくべきです。ここでイエスとヨハネは、洗礼によって霊的なつながりをもつことになったということ、そのことが特に重要な点です。
その時ヨハネはイエスのことをこう言いました、「私はこのお方の履き物の紐を解く値打ちもない」。イエスがヨルダン川に現れるずっと以前から、ヨハネは救い主イエスの登場を待ち続けていたのです。ちょうどそれはユダヤの長老シメオンが赤ちゃんイエス様を抱っこして喜び歌ったときの心境に似ています。シメオンも救い主の誕生をエルサレム神殿で長年ずっと待ち続けていたのです。ヨハネもシメオンも、救い主がやってくるアドベントをずっと待ち続け、そのときがやって来たのです。待っていた出来事が実現したときの喜び、それがどんなにか大きな喜びをもたらしてくれるかは、言うまでもありません。
救い主イエスとこうして出会ったヨハネは、時のガリラヤ領主ヘロデによってその後捕らえられ獄に入れられてしまいます。まったくもって思わぬ事態、青天の霹靂でした。救い主イエスと出会えた、そして洗礼によって霊的にイエスと深く関わったと思いきや、そんな喜びもつかの間、彼自身の運命はとんでもないことになってしまったのです。そうした中での問いが3節「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」でした。イエスのことが気になっていたのがこの一言でよくわかります。人との接触が極度に限られた生活を強いられる獄中ですが、イエスのうわさは時に彼の耳にも入ってきたのでしょう。耳にするイエスのうわさがほんとうなのか。漏れ聞こえてくるイエスの言動と活躍が、さきほどの3節の問いをヨハネに呼び起こしたのです。「来たるべき方は、あなたでしょうか。」
イエスはヨハネの弟子に言いました、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」イエスが病を抱えた人々を癒している。生活に苦しむ人たちに喜びの知らせを告げている。そのようなうわさを獄中で聞いたヨハネは、「やっぱりイエスは神から遣わされたキリストだった」という強い確信を得たことでしょう。
ヨハネが救い主の到来を待ちわびる様子、それがきょうアドベント第三主日の福音です。救い主の登場で、すべてが喜びで満たされたわけではありません。ヨハネの心中を探るなら、決して喜びで包まれているとは言えません。現実は大変深刻で厳しいのです。とらわれの身にあり、明日の命が保証されない中での日々でした。言い知れぬ恐れと不安が、心の中で鉛の塊のようにずしりと重くのしかかっていたのです。喜べと言われてもとても無理な日々を過ごしていたのです。それがこのとき、すなわち救い主の到来を待ちわびていたときの、洗礼者ヨハネの心の内でした。アドベントに入って第一、第二主日と福音を聞いているわけですが、ここまでずっとアドベントを終末の時として聞いているのです。きょうの福音もそうです。投獄という洗礼者ヨハネ自身の終末から、イエス・キリストの到来を聞いているのです。クリスマスはもろびとこぞりて喜びの時なのですが、この喜びは、人間の深い苦悩と悩みから立ち上がるのです。どう転んでも喜びなど出てきそうもない暗闇の中から、福音の喜びは湧き上がるのです。
イエスがヨハネに伝えるようにと弟子に言ったこと、それは身近な人たちが見聞きする話と変わりませんでした。具体的には、盲人が見えるようになったり、耳の不自由な人が聞こえるようになったり、体になんらかの障害をもっている人たちが治るといった奇跡の数々が起こった。それを伝えるようにとのことでした。注意してみてみると、これらはいずれも単に病人が健康になったという話ではありません。中には死者が生き返ったなどという奇跡まで出てきます。すべて奇跡です。奇跡を伝えよとイエスは言っていることになります。ただし「わたしがそれらの奇跡をおこなった」という言い方ではありませんでした。誰が奇跡を起こしたかは記されていません。ここにあるのは、ただ不自由を強いられていた人が、その悩みから解放されたということのみなのです。
それらと並んでイエスがもうひとつ言ったのは、「貧しい人は福音を聴く」でした。ここに、イエスがこの世に遣わされたもう一人の対象者がいることに気づきましょう、「貧しい人」です。とても大雑把な言い方なので、これだけから貧しい人がどういう人なのか、所得がどれぐらか、生活保護を受けているかいないかというようなことを考えたくなる私たちですが、そのような特定の仕方はここでは必要ないでしょう。これはマタイ福音書の言葉ですが、皆さんもよくご存じのとおり、マタイはイエスの山上の説教で「心の貧しい人は幸いである」と記録しててます。きょうの文脈でも、この貧しさをただ単に金銭的な貧しさだけとして扱うのは、イエスの御心ではありません。心の貧しさを抱える人もこの「貧しさ」の中に含むべきでしょう。
福音が届くのは誰なのでしょう。そして私たちがこうして福音を聞いているのは何故なのでしょう。キリストに触れようとしているのは、どうしてなのでしょうか。ひとえにそれは、ここにいる私たちはすべて、なんらかの「貧しさ」をもっているからです。福音が自分の頭上をとおり過ぎていってしまわないで、私の心に落ちてきてそれがとどまる。だから私たちはキリストに触れる、その言葉を聴くのです。続いてイエスは言いました、「わたしにつまずかない人は幸いである。」・・・これもまた誰のことを言っているのかよくわかりませんが、新約聖書全体から見えてくるのは、たとえばそれはファリサイ派だったり律法学者だったり、イエスがことあるごとに批判した人たちが「つまずく人」として思い浮かびます。彼らは社会的な力がありました。お金もありました。頭もとてもよく聖書のことを誰よりもよく知っていました。イエスの「福音」を必要としなかった人なのです。もっともこうした人たちの中にもたとえばニコデモのように、イエスに熱心に耳を傾けた人もいたことは付け加えておきたいと思います。地位が高くて評判が良くても、ニコデモのように心の中に貧しさを抱えていたファリサイ派もいたのです。その代表格といえば、なんといってもパウロということになります。
イエスが語ったのは、「人間の弱さ」です。肉体的な弱さ、経済的弱さ、心の弱さ、ありとあらゆる弱さです。私の弱さ、あなたの弱さです。イエスの御言葉に聞く私たちは、こうした様々な弱さのどこかにあてはまる誰かなのです。けれどもそこから回復が起こります。私たちの弱さ、貧しさがイエスによって強くなるのです。豊かになるのです。
ヨハネは今牢の中です。閉じ込められ自由を奪われています。イエスがヨハネに伝えたメッセージは、目の見えない人が見えるようになる、聞こえない人が聞こえるようになる、重い皮膚病の人が清くなる、足の不自由な人が歩けるようになる、死んだ人が生き返る、貧しい人が福音を耳にする、でした。ヨハネはこれを獄中で聞きます。閉じ込められ、自由を奪われていたヨハネはこれを聞いて、これは自分のことだと思ったことでしょう。弱さゆえに閉じ込められている人。弱さゆえに自由を失っている人、ヨハネがそうだったのです。閉じ込められている人々のひとり、それはたぶん私だなと思うとき、イエスの福音が私たちに届きます。イエスの救いが私のことになってくるのです。