説教「神の言葉がうごめく」
マタイ4:1~11
四旬節第1主日(2020年3月1日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 四旬節になりました。

 教会の暦に馴染んでいる方にとっては、この一言を聞くだけで、心に何らかの変化が起きるのではないかと思います。きょう歌う教会讃美歌66番も、四旬節の季節を映しだしています。
 「十字架を染めし み恵みの血しお 罪とがのきずな 解き放ちたもう」(2節)
 「十字架にかかり 息絶えしときに 地はふるえうごき 死の闇は包む」(4節)

 四旬節に私たちの心は、十字架・血潮・ 罪・とが・ 死 こうした言葉に捉えられます。

 きょうの旧約聖書には蛇が登場します。神様から命をもらったアダムとエバは、楽園エデンの園で神とともにある命を生きていたのですが、そこに突如蛇が現れます。蛇は「神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」と聖書はいいます。賢い蛇は二人を誘惑しました。食べてはいけないと言われた果物を食べても決して死ぬことはないよ、それどころかとてもおいしいよと声をかけるのです。

 主なる神は、それを食べると死んでしまう、だから食べてはいけないと言いました。最も賢い生き物の蛇は、そんなことは絶対にないと言いました。さてどちらが正しかったのでしょうか。

 蛇は言いました、「それを食べても決して死ぬことはない」。事実、食べたその時に二人とも死ななかったのです。毒を飲んで、その場でバタッと息絶えるということにはならなかったのです。その時アダムとエバはどう思ったでしょうか。「本当だわ、蛇の言うとおりだったわ。とてもおいしかった。それに私たちまだ生きてるわよ」。そんなエバの声が聞こえてきそうです。

 善悪の知識の果物を食べたことで、アダムとエバは知るものとなりました。知識を得たのです。そしてあることを知ることになります。あることとは、自分たちはやがていつか死ぬということ、それを知るようになったのです。そのことに気づいたとき、アダムとエバははたと神様の言葉を思い出すのです。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。そうです、主なる神様の言うとおりだったのです。そして二人は、もうひとつのことを知ります。正しかったのは蛇ではなく、主なる神様だったと。

 ユダヤ教のラビ(指導者)、ハロルド・クシュナーはこう言います。「私たちは、生きている間ずっと死ぬ運命にあります。人生の最も輝く時にさえ、その影が落ちることを知る唯一の生物です。アダムとエバの二人は、食べたその日には死にませんでしたが、彼らが手に入れた知識の一部、つまり動物たちと分け隔てる『知識』こそ、彼らは死ぬという運命にあるという知識だったのです」。死の影が自分の身に降りかかることを知る唯一の生物、死ぬことを自覚して生きる生物、それが私たち人間です。知識を得ることになった人間ですが、それによって死ぬという自覚をも得たのです。

 人間がそういう運命を生きることになった背景には、神の言葉に従わなかったという罪が人間にあるということを蛇の誘惑物語は教えています。 「この物語は、人間の死と罪を結びつけている」のです。普段は死を生物学的、病理的という切り口でしか考えることのない私たちですが、それとはまったく異なった死の理解がここにあります。きょうの福音書に耳を傾けるとき、罪と死が結びついていることを忘れてはなりません。

 善悪の知識の果実を食べて、人はもうひとつの知識をもつことにもなりました。7節はそのことを「目が開いた」と言っています。自分たちが裸であることを知ったのです。そしてその結果、恥ずかしいと思うようになりました。恥ずかしいという心は、人間が得たもうひとつの知識です。さらに恥ずかしいという気持ちは、恐れへの第一歩です。裸であることに気づいたそのとき、 「人は恐れることを知った」のです。

 きょうの福音書も誘惑の話です。悪魔がイエスを誘惑します。1節にはイエスは霊に導かれたと書いてあります。この霊とは、悪魔とは区別すべきものであって、どうやら聖霊のようです。ですから聖霊がイエスを悪魔の誘惑という試練に曝したということになります。あたかもテストのようです。神の子キリスト、救い主としての使命にイエスが耐えられるのかどうかのテストのように聞こえます。そういう背景を考えると、一般にはサタンの誘惑という言い方で知られているこのお話ですが、言い方を変えたほうが良いように思えます。イエスの試練、あるいは聖霊がイエスを試すと呼ばれた方が正しいように思えます。けれども私たちにはサタンの誘惑という言い方の方がズシンと響いて聞こえてくるのは確かです。

 腹ぺこのイエスに対してサタンは言います。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」・・奇跡を起こせ、そうすればお前の勝ちだ・・そう言っているように聞こえます。イエス様はお答えになりました、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。これは、今年市ヶ谷教会が年間聖句として選んだみことばです。サタンの誘惑は全部で三つありますが、きょうはそういうこともあって、この一節を取り挙げようと思います。このイエスの返答を私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。

 「と書いてある」と言っていることからわかるように、このみことばは旧約聖書申命記8章からの引用です。ですから、イエスは聖書の言葉に従うべきだと答えたのです。

 2週間前の2月16日の礼拝説教題は、「おこないの初動は心」としました。その日の福音書はイエスの山上の説教で、イエスは「『殺すな』『姦淫するな』とあなたがたは教えられている。しかし私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける。『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡される。『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言って、行いではなく私たちの心の中を、イエスは問題にしたというお話をしました。行いという結果ではなく、行いへと至るそもそもの原因を主は問題にしたのです。このことは、きょうのみことばとも深く関わっています。心が問われるとき、心の中では、何らかの思い、感情がうごめきます。うごめきは、最初は混沌とした状態でも、だんだんとはっきりしてくると少しずつ形をとり、やがて言葉になります。言葉は、心の内側にとどまっている場合もあれば、そのうち口から飛び出すこともあります。やがて言葉は行い、行動へと発展します。すべてはこのプロセスをたどります。良きにつけ悪しきにつけたどるのです。行いの始まりは、心の中のうごめきなのです。イエス様はこれを問題にするのです。これを問わなければならないと、山上の説教で教えたのです。行いだけだとファリサイ人といっしょだというのです。

 サタンの誘惑をご覧ください。サタンは行いを求めたのです。三つの誘惑すべてについてイエスに行いを求めたのです。「飛び降りてみよ」、「ひれ伏して拝め」、いずれも行いです。そしてイエス様は、そのすべてに対して言葉で返したのです。神の言葉で返したのです。このことに気づかなければなりません。山上の説教での教えとサタンの誘惑に際してイエスが取った行動は、一致しているのです。一貫しているのです。神の言葉によって生きる。主イエスは、サタンの誘惑でこれを実践したのです。

 神の言葉に生きる、これを私たちに当てはめてみましょう。そうすると心の中が問われてきます。心の中に神の言葉を宿すのです。心を神の言葉で満たすのです。なんといっても人間は、神に背いて、善悪を知る木の果実を食べた二人の子孫です。身を守るための知識を得たけれども、罪と死という定めを担っています。心の中のうごめきは、いつもそちらへと傾いていってしまいます。だからこそこのうごめきを罪ではなく、神様のほうへと向くようにしたいのです。それをしてくれるのが神の言葉なのです。

 罪という問題だけではありません。もうひとつ死という定めもあります。罪と死を関連づけるなんていう見方は、この世の知識で通じるものではありませんが、ここまで述べてきたように、このふたつは聖書的に深く関わるのです。そして救い主イエスは、このふたつを打ち破った救い主です。これはふたつに見えるだけで、ほんとうはひとつのことなのかもしれません。

 イエスは十字架によって罪の問題を解決しました。イエスは言いました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」。そしてイエスは死を打ち破っています。主イエス・キリストは罪と死を滅ぼし、勝利したのです。神の口から出る言葉によって勝利したのです。

 これからの40日間、主の十字架の言葉に聞き従って過ごしましょう。