説教「イエスの門と道」
ヨハネ10:1~10
使徒言行録2:42~47
復活節第4主日(2020年5月3日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 先週に引き続き本日も最初の聖書箇所は使徒言行録です。これはイエス復活の出来事と使徒言行録が密接に関わっているからです。使徒言行録というのはいわば教会の歴史です。初代教会の誕生とその発展が書かれていて、ここを読むと、どのようにして教会が誕生したのかがよくわかります。教会の成立過程というのは、教会に身を置く者にとってはとても興味あることです。そのきっかけはなんと言っても主イエス・キリストの復活です。キリストの復活があったから教会が誕生したのです。そう考えると礼拝の第一朗読で使徒言行録が読まれるのもわかります。 きょうの使徒言行録は先週の続きですが、区切りがちょっと不自然なところになっています。先週が2章の41節までで、きょうのところが2章42節から始まっています。先週のテキストでは使徒ペトロが復活のイエスを大胆に説教する場面でしたが、それは41節の次の一節で終わっています。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」。そしてきょうのところは42節から始まり、そこにはこうあります、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

 キリストを信じる人々がどんどんと増えてきて、彼らは使徒の教えに耳を傾け、信徒どうしの交わりをするようになります。そして私たちは、つぎの何気ないひとことを聞き漏らさないようにしたいのです。「パンを裂くこと」、これはそのあと46節にも出てきます。彼らは「家ごとに集まってパンを裂いた」のです。

 パンを裂くこと。彼らはこれをしたのです。使徒の教えに耳を傾けてイエスを信じた人たちは共に交わり、熱心に祈り、そしてパンを裂いたのです。そんな場面をちょっと想像してみてください。ここにはただ単に集まってごはんを食べるということ以上の意味がこめられています。イエス・キリストがパンを裂く、最後の晩餐のそのとき、弟子たちに最後に言いのこした言葉「これは私のからだである」。そう言ってイエスが裂いたパンを弟子たちに与えたというあの出来事・・私たちが聖餐式と呼ぶところの出来事が、パンを裂くというごく平凡な言葉の中にこめられているのです。そういう意味できょうの使徒言行録の箇所は大変重要なみことばです。

 もう少し46節をよく見てみましょう。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参った」とあります。神殿というのはエルサレム神殿のことです。ペトロたちはいったん地元のガリラヤに戻ったようですが、その後再びエルサレムにやってきたのです。そしてエルサレムを中心にイエス・キリストを信じる群れが増えていったのです。

 もうひとつ注目したいのは、依然としてエルサレム神殿で礼拝していたという点です。ユダヤ教の本山で相変わらずお参りしていたのです。つまりこれは救い主イエスをユダヤ教という宗教の枠内でとらえていたということです。彼らにとってはなんらそのことに矛盾はなかったのです。

 そしてもうひとつ大切なのは、エルサレム神殿でのお参りだけではなかったという点も重要です。そのあと彼らは「家ごとに集まってパンを裂いた」のです。ここに教会という言葉は出てきませんが、ここにある「家」、誰か信者の家、これが他でもない私たちがいうところの「教会」なのです。ここにキリスト教会が誕生しています。いわゆる初代教会の始まりです。立派な建物も尖塔もありませんが教会です。建物ではない、信じる人たちの集まりとしての教会です。

 なぜこうなっていったのかというと、救い主イエスが復活したからであります。聖霊降臨日(ペンテコステ)が今年は今月最後の日曜日にやってきますが、ペンテコステの日のことをよく教会の誕生日と言ったりします。イエス様がいなくなったあと聖霊が届けられて、聖霊の働きによって教会が出来ていったという説明がされます。そうなのですが、どちらかというとこれは神学的な説明といえます。歴史的にいうならば、つまり人間の出来事としていうと、イエス復活から教会が出来ていったと言うことができます。

 天地創造のことを科学の理論ではビッグバンと言います。それに因んで、私は復活のことを教会のビッグバンと呼びたいと思います。ビッグバン理論によると、その後宇宙は膨張し始めたのだそうです。今も宇宙は広がり続けているのだそうです。インフレーションというそうですが、では教会のビッグバンがどのようにしてインフレーションをひき起こしたか、それはペトロたちの説教だったのです。彼らの説教に耳を傾けて、そして家ごとに集まってパンを裂き、毎日祈り、神殿に行き、喜びと真心をもって共に食事したこと、そうしたひとつひとつがエルサレムの各地で起こったのです。こうして教会のビッグバンは起こったのです。

 今度は福音書に注目しましょう。「私は~である」というパターンのイエスの言葉が何度か出てきますが、きょうの福音書にもあります。「私は羊の門である」です。ほかにもあって「私は良い羊飼いである」とか「私は道であり、真理であり命である」などがあります。

 この「私は~である」という言い方は、わかりやすいだけにとても印象強く心に響いてきます。英語でいうところのI amです。簡単なひとことなのですが、聖書を紐解くとここには、ある秘められた事実が見えてきます。
 出エジプト記の3章にモーセが主なる神と出会う場面、あるモーセの召命が出てきます。モーセがホレブの山で燃える柴をみつけ、そこで神の声を聞きます。神はそこでモーセに命じて、イスラエルの民をエジプトの苦役から救い出すようにと言います。そして最後のところでモーセは神に尋ねます。「わたしはこれからイスラエルの民のところへ行きますが、そのとき彼らはあなたの名前を尋ねることでしょう。何と答えたらよいでしょう」。すると神様はモーセに自分の名前を告げるのです。神は言いました、「わたしはある。わたしはあるという者だ・・・」とても不思議な名前です。「わたしはある」、英語で言うところのI am,I am,が主なる神の名前なんです。

 イエス様が「私は~である」と自身を言い表したとき、そこにはこのI amが繰り返し出てくるのです。あたかもイエス御自身が「わたしはある。あるという者だ」と言っているかのようです。イエス自身がだれであるのかを、この言葉で表明しているかのようです。

 きょうのところでは「わたしは羊の門である」となっています。私を通って羊の囲いの中に入りなさい、というメッセージです。日本語には入門という言葉があります。なにか初めてのことに挑戦してみようと思いたって最初にすること、おそらくそれは本屋さんに行って入門書を買い求めることでしょう。キリスト教信仰をもつとは、主イエスの道に入門するということです。門をくぐるという言い方も日本語にはあるので、イエス様が「わたしは門である。羊の門である」という言葉でイメージがよく伝わってきます。

 「わたしは道である」とも言いました。道という言葉も私たちには馴染み深くとても理解しやすいです。柔道、剣道、茶道や華道など、ひとつの流儀や方法で己を鍛え、心や体を磨き鍛錬するとき「道」という漢字があてがわれます。イエスの門に入門し、イエスの生きかたを共に生きることを、これにならって思い切って「イエス道」と言ってもいいかもしれません。ただ「どう」と言ってしまうとどうしても心や体の鍛練、訓練といったニュアンスがこもるので、やっぱりイエス道と呼ぶのははやめとこうと思います。クリスチャンはほとんど賛成しないでしょう。内村鑑三は、そういう言い方が好きだったかもしれません。彼は高崎藩の武士の家庭に生まれ、家はここからすぐ近くの小石川だったそうです。明治から昭和にかけて、日本のキリスト者のみならず多くの思想家に多大な影響を与えました。そういう家柄もあって、内村鑑三というキリスト者には、随所に武士の魂みたいなものを感じます。彼は聖書研究会を晩年まで続けましたが、彼の最後の講演は、大久保駅の近くの柏木でしました。そのときの演題は「パウロの武士道」でした。

 広々とした羊の牧場。青草がおい茂っていて、囲いの中でたくさんの羊が草を食んでいます。門には羊飼いが立っています。羊は、羊飼いに守ってもらわないことには生きられません。そういう光景はイスラエルならではです。東京にいるとなかなか見えませんが、ただわたしたちが羊だというのは容易にイメージできます。イエス道は、心や体を鍛え強くするためではありません。イエス道は、羊が羊飼いイエス様に守ってもらうことなのです。イエスの門から入り、イエスの道を歩みましょう。