説教「紫の語りかけ」
マルコによる福音書13章24~37節
コリントの信徒への手紙一 1章3~9節
イザヤ書63章19b~64章8節
待降節第1主日(2020年11月29日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 今日から教会の暦が新しくなり、アドベントを迎えました。教会の新しい一年がきょうから始まったということです。日本のルーテル教会だけでなく、世界のキリスト教会の暦が切り替わったと言ったほうが正確です。

  アドベント、日本の呼び名で待降節は、一般にはクリスマスまでの準備のときとして知られています。ここにあるアドベントクランツのローソクが四本そろったら、クリスマスがもうすぐそこに。救い主イエス・キリストの誕生をお祝いするのを楽しみに待つとき、それがアドベント。心の中には、喜びのときを迎えるという楽しみと期待、そして希望があります。そうです、そのとおり。

そういう思いできょうアドベント第一主日の聖書の言葉を読むと、どうでしょうか。「えっ?! そうなの?」と、やや意外な印象を受けるのではないでしょうか。特にきょうの福音書の言葉からそれを感じるのです。

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」。

 これらのイエスの言葉は、喜びの時を迎える期待と楽しみ、希望といった私たちの感覚とは必ずしも一致しません。

 むしろこれは、先週まで読んできたイエスの言葉を思い起こさないでしょうか。先週まで聴いてきたのはどちらかといえばこの世の終わり、終末に関するメッセージでした。この世の秩序はやがて過ぎ去り、キリストによる新しい秩序が始まるという呼びかけでした。そういうイエスの言葉をもって2020年の一年間続いた暦が終わり、締めくくりとしたのです。

 そして冒頭でも申し上げたように、きょうから暦が新しくなりました。新しくなり、福音書テキストもマタイからマルコに切り替わりました。アドベントを迎えて、ここから御子イエス・キリストの降誕への備えをみんなでしましょう、心も少し華やいでいる、そんな変化が私たちには起こっている。なのに聖書の言葉は、先週からの引き続きで相変わらず世の終わりを語っているではないか。・・・暦をしっかり踏まえて福音書を読み進むと、そういうことに気づかされるのです。

 確かにそのとおりで、アドベントの聖書の日課として、終末のメッセージが残っているのです。なぜそうなのだろうかということを、アドベントの初日に踏まえておくのが良いでしょう。踏まえておくだけではなくて、むしろそのことを忘れてしまってはいけないのです。

 よくよく考えてみると、終末の到来とは、キリストの到来のことなのです。マルコによる福音書13章24、25節に続いてイエスはこう言います、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る」。栄光を帯びて、雲に乗ってという部分が具体的にどういうことかはわかりませんが、終わりのときに人の子(救い主)は来るのだとイエスは言うのです。終わりのときがキリストが来るとき、アドベントなのです。暦の上では切り離されているけれど、世の終わりとキリストの到来、すなわちアドベントはつながっているのです。ひとつのことあるいは出来事の表と裏なのであって、切り離してしまわないようにしたいのです。

 御子イエス・キリストを迎えるための備えのときアドベントを、ではどのように備えるべきか。それをきょうのみことばから聞きたいと思います。福音書に目を落とすとすぐに飛び込んでくるイエスの言葉があります、「目を覚ましていなさい」です。きょうの短い箇所のなかで、これが三度も繰り返して出てきます。そしてそれに続く言葉として、「その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」となっています。

 アドベントに向けて私たちの期待が高まりつつあるなか「目を覚ましていなさい」、このイエスの言葉が私たちにアラート信号を鳴らして聞こえてくるのです。申し上げたように、この世の終末とアドベントは別々のことではなくひとつの出来事の両面ですから、華やいだ気持ちとともにアラート信号を、主のみことばから受けとりたいのです。

 クリスマスシーズンとなって、銀座通りを彩る飾りつけはファッションセンスにあふれていつも見事、豪華です。教会の外での光景ではあるけれど、それを見ると私もまたもうすぐクリスマスなんだという期待と楽しみが膨らんで心躍ります。このシーズンはいつもと違うんだ、特別なひとときだ、そう語りかけてきます。街全体がクリスマスをお祝いしている。イエス様の降誕をお祝いしている。世界中がイエス・キリストに注目していると思えてきますが、そんなとき聞こえてくるイエスの声が、「目を覚ましていなさい」なのです。目を覚ましていなさい、というアラートなのです。

 アドベントに入り典礼の色が紫になりました。キリスト教では紫という色はもともと悔い改めの色で、これはイエス・キリストの受難の季節、四旬節に用いることを覚えている人も多いでしょう。一方、20世紀の後半頃から欧米のルーテル教会はじめプロテスタント教会では、それまでの紫から青が用いられるようになってきています。救い主がもうすぐ来るという私たちの希望が、青という色に込められています。そしてアドベントは四旬節とは違うので、それとは区別しようという考えから、青が用いられるようになったようです。

 近年のそうした伝統とは別に、きょうはアドベントに紫を用いるという古来からの伝統に眼を向けたいと思います。この紫という色が、きょう私たちに何か語りかけてこないでしょうか。紫は悔い改めの色、ということはアドベントが悔い改めの時なのだというメッセージをこの色から聴き取ることができるのです。アドベントと悔い改めが、皆さんの心の中でひとつになりますか。ひとつにしたいのです。実は、礼拝式にもそうした伝統は残っています。 

 すでにお気づきと思いますが、きょうは式文の中のグロリアを唱えませんでした。なぜそうしたかというと、アドベントの時期にグロリアを歌わないという習慣があるからです。グロリアとは栄光のことで、主の栄光を誉め讃えて、神を賛美する部分です。グロリアを歌わない唱えないことで、礼拝において私たちが慎み深く、主の前にくずおれた心を示すためです。きょうは敢えてそうしました。ただ普段のアドベントにおいては、市ヶ谷教会ではグロリアを歌う(唱える)ことにしています。主を誉め讃えることをもって、主を待ち望みたいからです。ですから聖壇の布は紫ですが、アドベントでは青の心も大切にしたいと思うのです。

 銀座通りの華やかさイコールアドベントと、そのまま結びつけてしまいがちな私たちです。楽しいショッピング、おいしいごちそうを目の前にして心躍るほうがいいに決まっているのですが、クリスマスを待つ時の、主の御心に沿ったふさわしい心構えというのは、そこに紫の色の語りかけを聞き取るということです。そしてそれに加えて希望を語る青のメッセージを聞き取りたいのです。

 私たちがまもなくお迎えする救い主は肉をまといました。それも小さな肉のいのちです。この小さな救い主がやがて大きくなって、その後たどった生涯のことを、「目を覚ましていなさい」という主の言葉から思い起こさなければなりません。イエス・キリストの生涯には、華やかさも輝きもこの世の力もなかった、救い主本人の面影は、むしろみすぼらしく目立たず、弱々しかったことに気づかされるのです。けれどもその姿の中にこそ、まことの救い主がいるのです。私たち一人一人の救い主としているのです。華やかさのなかにまことの救いはないのです。

 きょう集まっている私たちは、そういうところ、イエス様の目立たない、弱々しさの中に、私たち自身の救いを見いだすことができたのです。喜ばしいことです。それを素直に喜びたいのです。慎みのうちにある大いなる喜びを、この季節共に分かち合いましょう。