説教「混ざり合ってもカラフル」
イザヤ書60章1~6節
エフェソの信徒への手紙3章1~12節
マタイによる福音書2章1~12節
主の顕現主日(2021年1月3日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

 フランスのストラスブールという都市は、ドイツとの国境にあるとても魅力的なところです。ストラスブールは歴史的にも宗教的にも有名ですが、クリスマスマーケットがヨーロッパではとてもよく知られています。

 以前、説教でも触れたことがありますが、ここにひとつのルーテル教会の神学研究機関があります。エキュメニズム研究所といって、キリスト教のいろんな教派間との神学的な対話を実践したり研究しています。私も世界ルーテル連盟の理事をしていたころ、関わらせていただきました。かつてここの所長をしていたテオドール・ディーター先生のことを記憶にとどめている方もいらっしゃると思いますが、2017年に来日され、そのとき市ヶ谷教会でも説教をしてくださいました。また現在日本福音ルーテル東京教会の英語礼拝を担当しているサラ・ウィルソン牧師は、長年にわたりここの研究員を続けていらっしゃいます。

 ストラスブールという街にこうしたエキュメニズム研究機関が設立されたのはとても象徴的なことと言えます。というのは、この町が宗教改革に深く関わっているからです。ルターの影響を大きく受けたマルティン・ブーツァや改革派のカルヴァンらがここで活躍しました。宗教改革というとヴィッテンベルクを思い起こすのですが、カトリック教会と袂を分かち、プロテスタントと呼ばれ始めたキリスト教会の誕生へ向けて、ストラスブールも動き始めたのです。宗教改革は教会の対立に端を発した出来事です。またこの町はドイツとの国境に位置しているわけですが、フランスとドイツは何度も戦争を繰り返してきましたが、その都度ストラスブールの取り合いをしたという歴史的経緯があって、この点においても対立という構図があったのです。対立の煽りを受けた町ストラスブール。その対立を乗り越えようとエキュメニズム研究所は設立されました。対立から対話への歩みです。

 顕現主日のテキストはクリスマスのお話なのですが、イエス・キリストの誕生という出来事を、今お話した観点から眺めてみたいと思います。そうすることで、今回クローズアップされる地域、人々が見えてきます。

 イザヤ書を見てみましょう。60章3節「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。6節「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」とあります。国々、ミディアン、エファのらくだ、シェバの人々が登場します。これらはみなイスラエルではない国々と人たちです。すなわち異邦人です。

 今度はエフェソの信徒への手紙をみてみると、1節「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは‥‥」となっていて、ここにも異邦人が登場します。パウロはエフェソにいる異邦人にこの手紙を書いたのです。

 そしてきょうの福音書に現れるのは占星術の学者たちです。彼らは東の方の国からエルサレムにやって来ました。彼らもまたよその国からやって来た異邦人です。

 本日の三つのテキストには、いずれもイスラエルの外の人、非ユダヤ人、ユダヤから見たところの外国人とイエス・キリストとの出会いが描かれているのです。

 聖書は、創世記を別にすれば今からおよそ四千年前の出来事が書かれている書物です。当時と今と文明を比較するとあらゆる点で違っているわけですが、なかでも顕著な違いは人の行き来ではないでしょうか。動手段は足か、乗り物といってもせいぜい船に限られていた時代ですから、人の行き来は今ほど自由ではありませんでした。今はいろんな交通手段を使って、世界中どこへでも行けるのですが、聖書の時代は移動にものすごい時間を要したのです。そうなるとよその国で他民族の人たちと出会うという機会は、ごく希で限られた人たちだけが経験していたのです。

 見た目や、言語をはじめ数多くの違いがあることから、異なる民族どうしではどうしても対立が起きやすくなり、争いが絶えませんでした。

 その点、パウロが手紙を書き送ったエフェソの町の教会はとてもユニークです。ここには祖国を離れたユダヤ人たちが多くいて、礼拝堂シナゴーグもありました。シナゴーグに集まっていたのはユダヤ人だけではありません。地元エフェソの人たちも大勢いました。エフェソの教会ではユダヤ人が他民族と出会い、異邦人と共に生活していたのです。

 パウロが教会という時、それはユダヤ人がいてギリシャ人がいてローマ人がいる人の集まりのことです。民族や言葉の違いがあっても、そうした違い以上にイエス・キリストを信じる心で結ばれていた人たちの群れです。パウロは言いました。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです」。人の行き来が少なく、肌の色や言葉の違いだけで相手を警戒し、差別や偏見をもったとしてもおかしくない時代に、パウロはこういう考えをはっきりと示したのです。

 現代は誰でもどこにでも住める時代です。言葉や文化、民族の違いはなくなってはいませんが、その垣根はずいぶんと低くなったと言えます。そうした違いが混ざり合っているのが当たり前の時代です。けれども人と人との違いは歴然と存在していて、それが別の形で現れてくるようになりました。そしてそうした違いが対立となって出てくる現象は、相変わらず頻発しています。人間の性の問題、LGBTQなどもそのひとつとしてあげられます。

 聖書の時代の倫理観では、パウロ自身もそうだったように、LGBTQといった性的指向は、社会の中で到底受け入れられませんでした。では現代はどうでしょうか。当時よりもいろんな面で人と人との垣根が低くなってきています。こうした難しい問題を数千年前の価値観だけで考えることは、もはやできないでしょう。聖書を人を裁くための物差しにしてはいけないと思います。むしろ聖書は人をつなぐ物差しであるべきなのです。

 キリスト教会は、各教派がそれぞれ自分たち独自の教え、教義をもっています。それに基づいて教会作りをします。そのために教義はとても大切です。けれども聖書が人を裁く物差しではないように、各教派の教義もそうであってはいけません。教義を物差しとして使ったとき、対立が始まります。

 日本聖公会の神学者、西原廉太氏の教会論がちょっとおもしろかったので紹介したいと思います。教会論にはふたつのパターンがあって、ひとつは風船型、もうひとつは鳥の巣型だそうです。風船型は同心円的に均一に膨らんでいくイメージです。みんなが同じように成長するという感じ。それに対して鳥の巣型は均一ではありません。鳥の巣は長い枝、短い枝、曲がった枝、なかにはハンガーやプラスチックもあったりと、その材料は実に多彩です。社会が多様化しているのであるから今日の教会論は、風船型でなくて鳥の巣型でなければならないと述べていました。とてもわかりやすい解説です。

 たくさんの教えとたくさんの教派があり、各々が独自の教えをもっているなかで、エキュメニズムはどうあるべきかを考えたとき、私がイメージするのは絵の具です。教会はイエス・キリストにあってひとつ、このことは確かにそのとおりですが、このときひとつになるということは、すべての絵の具の色を全部混ぜ合わせるということではありません。絵の具を全部混ぜ合わせるとどうなるでしょうか。どれかひとつの色が勝つということにはならないのです。すべての色が消えてしまい、灰色になります。これがひとつになることなのかと言われると、そうではないと思うのです。それぞれの教会が自分の色を大切に保ちつつ集まって、イエス・キリストの愛をカラフルに再現すること、それがエキュメニズムの目指す方向だと言えます。

 東の方からやってきた博士たちはユダヤ人ではなく異邦人でした。そしてこのことに気づくとちょっと驚かされるのですが、異邦人が真っ先に救い主と出会ったのです。そしてイエスを礼拝したのです。意外や意外、異邦人が最初にイエスを礼拝したのです。これもクリスマスの大切な知らせなのですが、見落としてしまいそうです。主イエス・キリストは生まれて間もないときから、まだ何もしゃべれなくても、いのちそのものが、そうした人間の違いや垣根を乗り越えていくべきことをこのことは教えてくれています。イエス・キリストは、異邦人である私たちの救いのためにお生まれになったのです。