説教「愛する心に神はいたもう」
ヨハネ14:15~21
復活後第5主日(2014年5月25日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

旧約と新約
聖書は旧約聖書と新約聖書で成り立っています。みなさんはこのふたつの違いをどのように説明しますか。古い新しいという違いもそうですが、ほかには旧約は分厚くて全部読めない、新約は少しだから読みやすい、というのもあるかもしれませんね。最も大きな違いといえば、イエス・キリストが登場するのが新約で、旧約には登場しないという点でしょう。すべてはここに帰結すると言ってもよいでしょう。

ではこのふたつの共通点はどうでしょうか。共通点があるからこそ、このふたつがあわさったものをわたしたちは聖書と呼んでいるわけです。旧約も新約もいずれも、主なる神様を証しているという点、これが共通点です。同じ神です。イエスが父なる神様というとき、その神様は旧約聖書に書かれている神のことです。そしてそれをもとにもうひとつの共通点を探るとすれば、いずれもわたしたち人間の救いを伝えているということです。

救いの方法
次に、救いの中味の違いに目を向けてみます。まず第一に誰を救うかという点です。旧約聖書はユダヤ人の救いを語ります。そして新約聖書はすべての民の救いを語ります。これは大きな違いですね。もうひとつは、神様は人間をどのように救うか、という点が違います。結局のところこの違いがあるために、ユダヤ教とキリスト教は別の道を歩むことになったといえます。人をどう救うか。旧約聖書は、神の掟を守ることで救いを説きます。神様がモーセを通して与えた律法はそのためにあります。人間を救うための言葉、それが律法です。一方、新約聖書はイエス・キリストによる救いを語ります。ここが最大の違いといえます。仏教もイスラム教もキリスト教も、どの宗教もみんな人間の救い、救済を説くのです。違いはその方法だけなのです。

旧約聖書が説く律法による救いというのは、わたしたち人間が神様の教えを忠実に守ることを求めます。分厚い書物に事細かに記された律法という掟を忠実に守る。そんなふうに生活するのかと思うと私なんかはぞっとしますけれども、考え方は決して間違っていないのです。なぜならわたしたちはしょっちゅう神様に背いて生きているからです。ですからほんとうは律法に書かれているように正しく生きるべきなのです。律法は正しいのです。ところがわたしたちはいつもずるをして、ごまかしている。表に現れることはなくても心の中では言葉とまったく逆のことを考えていたりとか・・。イエス様はそういうわたしたちの現状を鋭く指摘しました。

ただ、イエス様はいい加減なわたしたちを指摘して「だめだぞ、おまえ!」としかりつけたのではありません。地獄へ行けと裁きを下したのではありません。イエス様は、律法を忠実に守れないわたしたちを赦してくださったのです。そして救ってくださったのです。そのために神様から遣わされたのです。律法によって救うのではなく、イエス・キリスト御自身が十字架によってわたしたちの罪を赦し、救いを成し遂げてくださったのです。律法ではなく赦しによる救いです。律法を守れない人間、神様に背いてばかりのわたしたちを救う、とにかく救う、許して救う。神様はひとえに人間を救いたいのです。そのためにわたしたちに求めるものはなにもないのです。必要なものはすべてイエス様が満たしてくださいました。イエス様がわたしたちのために命をささげてくださった、わたしたちをそこまで愛してくださったのです。このイエス御自身の大きな愛のわざ、主イエスの愛がわたしたちを救うのです。二四時間テレビのイベントのキャッチフレーズが、「愛は地球を救う」ですが、そのとおりなのです。イエス様の愛によって救いは実現したのです。わたしたちの行いではありません。わたしたちは救いを神様から授かるのです。ただでいただくのです。恵みなのです。これが良き知らせ、福音と呼んでいる言葉です。福音、これが新約が伝える救いです。

律法と福音
救うために旧約は律法、そして新約は福音を告げます。律法と福音、これが今日わたしがお伝えしたいと思っている旧約と新約のもうひとつの違いです。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(一五節)。この言葉を聞いて思うのは、ここでイエス様は律法と福音のふたつをいっしょに語っているということです。イエス様は神の律法を無にしていません。愛することが旧約の律法を満たすというのです。分厚い旧約聖書にいっぱい書かれた掟をすべて守れというのではありません。愛することが旧約の律法を満たすと説くのです。

分厚い律法の書から「愛する」というたった一言の掟に集約されたのはいいのですが、さりとて決してこれは簡単ではありません。イエス様と弟子とのこの会話は、まもなくイエス様が十字架に架けられるという状況で交わされました。そのときに語るイエス様の愛というのは、わたしたちが普段口にする軽々しい愛とは一致しないでしょう。韓国のフェリーが沈没するとき、乗組員の女性パク・ジヨンさんが救命道具を生徒たちに渡して、自分自身が犠牲になりましたが、イエス様が弟子たちにここで語る愛は、そういうレベルの愛で考えなければなりません。旧約聖書のたくさんの掟を、イエス様が愛というたったひとつの掟にしてくれた。ひとつだったら守れるような気がする。そう思いたいところですが、そううまくはいきません。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。掟を守って自分の救いを成し遂げるというのは、やはり難しいのです。イエス様のこの言葉は、律法の掟をわたしたち人間が守れないということをやはり示しているのです。

けれども守れないから守らなくてもいいということではもちろんありません。律法は旧約が語るところの救いの手段です。救いの神の言葉です。それと同じレベルで、イエス様は愛することを語っているのです。愛するということがどれほどわたしたちにとって根源的なことかをこの一言から教えられます。愛するということが、神との関係においてどれほど大きな意味をもっているかが、この一言から聞こえてくるのです。

「自分がどれほどあなたたちのことを愛しているかわかっているか」と、イエス様は自分の愛の大きさを誇らしげに語っているわけではありません。まったくその逆で、わたしたちがイエス様をどれほど愛しているかを、ここで語っているのです。

もうひとつ別の弁護者
ではわたしたち人間が、イエス・キリストを愛するとはどういうことでしょうか。そのあとに続く言葉がヒントになります。「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」。別の弁護者という、もうひとつ別の人格について語っています。これはあと二週間ほどで迎える聖霊のことです。大切な人々のことを思い、その人たちにいろんな愛を示そうとするわたしたちですが、その愛をイエス様に対して向けるとき、欠かせないのが聖霊なのです。聖霊が働いてくれているから、わたしたちはイエス様を慕い求めて、イエス様とつながっていくことができるのです。愛するというわたしたち人間の行いでイエス様とつながる。そのときに聖霊はいつも共にあって働いているのです。聖霊が働いているから、わたしたちはこうして主イエスとの繋がりを保つことができるのです。

私は自分を現す
最後のところでイエス様はこうも語っています。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。これはおもしろい言葉です。なぜならば、愛することを通して私は自分を現すと、イエス御自身が語っているからです。弟子たちはおそらくきょとんとして、なんのことだかよくわからずこの言葉を聴いたことでしょう。けれどもわたしたちはそうではありません。主イエスは復活したあと昇天しました。ですからもはや姿を伴って、わたしたちの前に現れることはないのです。それでも「わたしは自分を現す」というのです。愛することのうちにイエス様は現れるのです。愛が通い合っているところに神はおられるのです。人と人が愛し合っているとき、それを実現しているのは聖霊であり、神様がそこに生きてはたらいておられるのです。姿を現した神様を見ることはできませんが、愛が働いていることは、だれでも比較的簡単にいろんな機会に気づくことができます。おもいやり、暖かい言葉、親切、おもてなし。日本語にはそんな表現の愛があります。それが見えるとき、それを受けるときそして与えるとき、そこに主イエス様は現れているのです。

エマオという町へ向かった弟子たちが、旅行く途中にイエス様と出会いました。けれどもそれがイエス様とわからなかったのです。けれどもやがてイエス様がパンを裂き、弟子たちと晩餐をいただいたとき、そこにイエス様が現れていることに二人の弟子は気づきます。弟子たちは言いました、「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ二四・三二)。愛が働いたに違いありません。たとえ相手がだれであれ、わたしたちのうちに愛が行き交うとき、主はいつもそこにおられるのです。