説教「聖なる霊の名」
使徒言行録2章1~21節
ローマの信徒への手紙 8章22~27節
ヨハネによる福音書 15章26~27節、16章4b~15節
聖霊降臨主日(2021年5月23日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
教会暦では、イースターから数えて50日目が聖霊降臨の日曜日です。この50日目というのは、きょうの第一朗読の使徒言行録にありますが、人々が突如外国語をしゃべり出すという不思議な出来事が起きたのが五旬祭という祭りの日だったからです。五旬祭とは五十日祭のことで、これは小麦の初穂の収穫を記念してお祝いするユダヤの三大祭りのひとつです。このユダヤのお祭りのことをギリシャ語でペンテコステといいます。つまりペンテコステの日に聖霊が降ったということで、キリスト教で聖霊降臨を覚える日のことをペンテコステと呼ぶようになりました。ペンテコステの主日には、この使徒言行録2章からみことばを聞くことになっています。
これまでは主イエスが弟子たちと一緒でした。イエスは復活した後も、40日間弟子たちと地上での生活を共にしました。けれども、やがてイエスは昇天します。とうとう弟子たちから離れていったのです。けれどもイエスは天へと帰る間際に弟子たちにひとつの約束をしたのです。それがルカによる福音書に出てきます。「 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(24章49節)。そう言ってイエスは、天へと帰っていきました。父なる神様が約束した高いところからの力。これが聖霊そのものです。
最後の晩餐の日、イエスは弟子たちに多くを言い残して十字架に向かいましたが、きょうのみことばはその一部分です。既にイエスはここで、聖霊について触れています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来る」と言っています。聖霊が弁護者、父のもとから出る真理の霊という表現になっています。
さきほど読んだ使徒言行録では、聖霊が降って人々が突如外国語で祈るというとても不思議な現象で登場しましたが、イエス自身の言葉からは、聖霊のそうしたセンセーショナルな働きのことは語られません。イエス自身の言葉からは弁護者、真理の霊、高いところからの力という表現になっています。聖霊について考えるとき、このことは私たちが覚えておくべき点であります。
人々の目を引くのはペンテコステのとき起こった出来事のほうでしょう。まさしく霊的な不思議な力が働いたということを実感させられるからです。けれどもイエス自身は、炎のような舌が人々の上に止まるという奇跡には関心がないかのように思えます。確かにイエスはそういう方だったことを思い出します。イエスによる数多くの奇跡や癒しが聖書には記録されているわけですが、それらはいずれも神の力を世の人々に示す為ではありませんでした。ましてや人の目を引くためでもありません。イエスが奇跡をなしたのは、その人たちのことを憐れんだからです。その結果として奇跡が起きただけのことでした。目を見張る霊的な現象にはイエスは関心がない、そう言っていいと思います。
もう一度イエスの言葉に戻ると、弁護者、真理の霊、高いところからの力と、イエスは聖霊を表現しました。あたかも、これは弟子たちが知らない未知の力であるかのように聞こえてきます。けれどもそういうことではありません。聖霊という言い方をしていないだけです。イエスは宣教活動の中でも何度か聖霊について言及しています。たとえば「聖霊を冒涜する者は赦されない」などと言ったりしています。ですから聖霊は決して目新しいものではないのです。ただここでイエスは、とてもあらたまった言い方で聖霊のことを弟子たちに紹介し伝えているのです。
「聖霊」と呼ぶことで、私たちはこれをひとつの固有名詞として理解するわけです。神様の力がそう名付けられたのですが、聖霊という固有名詞で言う代わりに「聖なる霊」という訳し方でもよいのではないかと思います。要するに神の霊なのです。そう呼んでもいいのです。神の霊は天地創造の始まりのところにすでにあります。「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1章2節)。こんな初めのところでもうすでに神の霊が登場するのです。これを聖なる霊と呼ぶことになんらためらいはないでしょう。
きょう私たちが注目しているこの霊は、ペンテコステの日に初めて現れた何か特別な霊ということではないのです。すでにあって働いている力なのです。天地創造の初めから今日に至るまで、すべてのいのちと共にあり続けている聖なる力です。神の霊、聖なる霊などと呼ばれて人々の間に働いてきたのです。それをイエスがここで弟子たちにあらたまって弁護者、真理の霊、高いところからの力という呼び方をしたのです。きょう聖霊降臨日に私たちが聞いているのは、この原初から存在した神の霊が、今、イエスが地上から離れていくとき、まったく新しい力となってあなたたちに働きますよと告げているのです。その聖なる霊の新しい力のことをこそ、私たちはきょう覚えているのです。
きょうの第二朗読、ローマの信徒への手紙も聖なる霊についてです。パウロはここで聖霊でもない、聖なる霊でもない、ただ「霊」と言っているだけですが、これもやはり聖なる霊のことです。パウロがまったく違った角度から霊の働きについて述べています。26節「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。試練なのか目の前に迫る危機なのか、パウロが何らかの大きな不安を抱えている、大きな困難が目の前に立ちはだかっている様子が思い浮かんできます。福音伝道を続けていくときに出くわした迫害が思い浮かんできます。そうした迫害をローマの教会の人たちもまた、パウロと共感しながら生きている状況が考えられます。
追い詰められた私たちにはもうなすすべがない。大きな困難を前に、何も出来ないほど弱りはてている。何を祈ったらよいのか、もはや祈る言葉もない。そんな思いを吐露しているようです。けれども霊が、そんな弱い私たちを助けてくれると励ましています。霊が私たちのために執り成してくれる。そこに確かな希望があるのです。
ここでパウロは「霊」としか言っていないのですが、「霊が助けてくれる、霊自らが執り成してくれる、霊の思い」という言い方をしており、パウロが霊を人格的にとらえていることは明らかです。このように霊を人格として語るパウロの言葉には、さきほどのイエスの言葉とも通じるものがあります。イエスが聖なる霊のことを弁護者と呼んだからです。弁護者が弱い私たちを助け、執り成してくれるのです。ただしパウロによるとこの弁護者は、雄弁に弁護をしてくれるというわけではなくて、「言葉に表せないうめきをもって」執り成してくれます。うめきですから、私たちにはわからないのです。説明がつかないのです。
気づかないうちに、いつのまにか。後から振り返ったら、主が確かにあの時私と共にいてくださった。そうだとしか思えないような体験は皆さんにはないでしょうか。小さなことでもそんな経験があったとしたら、それは聖なる霊が弱い私たちを助けてくれたのです。弁護者なる霊が執り成してくれたからです。
聖霊降臨日のこの日、聖なる霊の新たな大きな働きとしてもうひとつ大切なことがあります。それはまさしく使徒言行録2章の出来事から始まったと言ってもよいのです。イエスがいなくなった後は、この聖なる霊が大活躍するのです。教会というキリスト者の集まりが興されて、そこで祈りがささげられ、そこから福音宣教が始まっていったのです。ですから聖霊降臨日のことをよく教会の誕生日と言ったりします。聖霊なくして教会はないのです。
この後洗礼式が行われます。洗礼式があるたび私たちはイエスが洗礼を受けた時のことを思い起こします。その時の霊は鳩のように降ったと福音書は証ししています。これもまた聖なる霊のひとつの見え方であります。聖霊という人格が、洗礼という出来事のなかで豊かに働かれるのです。水を通して神の霊が受洗者に臨むのです。天地創造が始まる直前、神の霊が水の面を動いていたように、きょうここで、聖霊が力を発揮して動くのです。