説教「聖霊と水かけ祭」
ヨハネ7:37~39
聖霊降臨日(2014年6月8日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
聖霊降臨日というのは、よく理解しようと思うとちょっとややこしいところがあります。なぜかというとキリスト教の伝統とユダヤ教の伝統が入り交じっているからです。キリスト教は元々ユダヤ教から派生した宗教ですから、キリスト教の教え、すなわち新約聖書に書かれている様々な出来事というのは、ユダヤ人たちの文化とユダヤ教の教えと密接に結びついています。ユダヤの歴史と文化を理解していないと、新約聖書に書かれている出来事も分かりづらくなってきます。
きょう最初に聞いた使徒言行録の2章、これは毎年聖霊降臨日に読まれる有名な箇所です。ここを読むからこの日がある、そういってもいいぐらいです。毎年、たいていはここを元にしてこの日の説教をします。きょうはヨハネ福音書から聖霊降臨日のみことばを聞いていきますが、まずは使徒言行録2章に書いてあることを参考にしたいと思います。ここには冒頭で、これがいつ起こった出来事なのかがはっきりと記されています。五旬祭の日となっています。ユダヤ教のお祭りのなかでも三大祭りのひとつとされる五旬祭のとき、聖霊降臨が起こったのです。そしてこのお祭りのことをギリシャ語でペンテコステと言います。五旬祭の祭りの日に聖霊が降ったから、そのギリシャ語の名前をとって聖霊降臨をお祝いする礼拝のことをペンテコステと言い習わしています。このユダヤのお祭り、イスラエルの言葉でシャブオットと言いますが、これはちょうどこの時期、すなわち初夏にあたります。今年はいつかなと思って調べてみたら、6月4日がシャブオットとなっていました。
さてさきほどユダヤ教の三大祭りと言いましたが、その三つとはひとつが過越の祭り、二つ目がさきほどのシャブオット、最後のひとつがヘブライの言葉でスコットと呼ばれるお祭りで、日本語では仮庵の祭りと言われます。10月頃ですので秋の祭りです。この祭りはイスラエルの歴史と深く関わっていて、モーセの出エジプトの出来事に由来しています。カナンの地にたどり着くまでの40年に及ぶ荒野の旅は、衣食住なしで流浪の旅を続けたわけですから、モーセとイスラエルの民にとって非常に過酷で大きな試練でした。自分の住まいはもはやなく、寝泊まりはその辺にある木々の枝葉でこしらえた仮の宿、仮の庵。それを40年続けたわけです。けれども何世代もかけてとうとう最後に約束の地についたとき、仮庵で生活しながらの民族大移動を神様が守ってくださった、そのことを神様に感謝したのです。この出来事を覚えるお祭りがスコット、仮庵の祭りです。
お祭りの話を長々としてしまいましたが、きょうは6月8日、キリスト教では聖霊降臨日です。6月のユダヤの祭りペンテコステの日にこのことが起こったのです。10月にあるもうひとつの祭り、仮庵の祭りは直接関係ありません・・・、といいたいところですが、実はそうではないのです。聖書をお持ちの方はきょうの福音書ヨハネ7章を見てください。見出しに「仮庵祭でのイエス」と書いてあります。37節には「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」とあります。きょうのみことばは、イエスがエルサレムの神殿にいたときに語った言葉ですが、それは仮庵祭の真っ最中だったことがわかります。
きょうの福音書はとても短く、イエスの言葉もほんのちょっとだけ。37節からもう一度読んでみましょう。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」なぜこのようなことをイエスが言ったのかを考えねばなりません。この言葉の背景を理解するには、どうしても仮庵の祭りのことをもうすこしお話する必要があります。このお祭りをイスラエルの人たちがどのように守るかがカギとなります。どんなお祭りかということです。元になっているのは旧約聖書レビ記の記述です。「あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」祭りはこのみことばのとおり行われます。何しろ三大祭りですから、基本的には今でも守っているようで、敷地内に簡単な小屋を作ってその中で御飯を食べたり聖書を読んだりして七日間過ごします。七日間の祭りですから、休みもたっぷりあります。そしてもうひとつ、今も行われているかどうかわかりませんが、きょうの聖書にまつわる重要な宗教的儀式があります。ミシュナーというユダヤ教の注解書に書かれている古来からの儀式です。シロアムの池から水を汲んできて、それをエルサレム神殿に運び祭壇に注ぐという儀式です。ちょうど乾期が終わり雨期になる頃のお祭りなので雨乞いの象徴だとも言われます。これは水かけ祭りですね。ところかまわず水をかけまくります。水かけ祭りを私はタイで経験しましたが、ネットで調べていたら、日本にもありました。しかも江戸三大祭りのひとつ、ここからすぐ近く、深川の富岡八幡宮も有名だそうです。三大祭りといい水掛祭りといい、その他にもいろいろありますが、こうしてみると日本の神道とユダヤ教ってどこかでつながっているようです。ユダヤの水掛祭りでお祭りは最高潮に盛り上がります。威勢のいいかけ声、そして笛太鼓が鳴り渡ります。日本のお祭りならおみこし担いでワッショイ、ワッショイとなるところです。
大変長々とお祭りのことをお話してしまいました。それもこれも37節を説明するためです。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」こそ、今お話した状況です。イエスはそのときエルサレム神殿にいました。そして座りながら、そのお祭りの中にいたのです。水もたくさんかけられたことでしょう。そのときイエスは立ち上がって、声を上げるのです。聖書は、「大声で言われた」とあります。きっとものすごく騒々しかったのでしょう。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。このひとことが出てくる背景は、この仮庵の祭りだったのです。水を浴びながら、イエスはこれを叫んだのです。さらにこうも言います、「聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。水かけ祭りのとき読まれる聖書の言葉は、ゼカリヤ書で、そこにはこうあります、「その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」(14章8節)。イエスはこの聖書の言葉を思い浮かべてこのように語ったのでしょう。
これと同じような言葉を、わたしたちは3月に聞きました。ヨハネ福音書4章にあるイエスとサマリアの女との対話です。井戸に水を汲みにやってきた女性に向かってイエスはこう言いました。「私が与える水を飲むものは決して乾かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」というイエスの叫び。イエスが与える水を飲む。この比喩的な表現を、ヨハネは39節で次のように解説しています。「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われた」。イエスが与える水、生ける水、泉となってあふれる水、この水こそ聖霊のことです。
イエスはまた別のところでこういう言葉も語りました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」というきょうのみことばと合わせて読むと、このみことばも聖霊のことを言っているのだと理解できます。
イエスは復活したあと昇天し、その後代わりの力として聖霊が降りました。それがとても象徴的に起こった出来事が、使徒言行録2章に記録されています。聖霊に満たされた人々が突然異言を語り出します。その衝撃の大きさゆえに、こうした不思議な現象に心奪われ、それを追い求める人もいますが、それよりもまず、イエスが語った言葉をしっかりと受け止めていくことが大切です。聖霊についてパウロはこう言っています。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とはいえないのです。」イエスに対して、あなたは私の主、わたしの神、そのように心から言える人は、もうすでに聖霊を受けているのです。礼拝で主に向き合って、神を賛美し祈るわたしたち、そして信仰を告白するわたしたちに、神様は聖霊を授けてくださっているのです。