説教「いのちをいただくお食事」
箴言 9章1~6節
エフェソの信徒への手紙 5章15~20節
ヨハネによる福音書 6章51~58節
聖霊降臨後第12主日(2021年8月15日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
新型コロナウイルスの感染者数がここに来て急に増え始めて、連日過去最高を記録するとは思いませんでした。いろいろと制限されたなかでの暮らしに、多くの人々が辟易としてきているなかだけに、私たちの辛抱が今最も試されています。教会の礼拝も、とても窮屈な形でしか出来ていませんが、それでも礼拝が出来ていることを、本当に感謝したいと思います。ただコロナ禍になってとても残念なことは、礼拝のたびにおこなっていた昼食会が出来なくなってしまったことです。これが出来なくなって、改めてそのありがたみを思います。
ごはんを食べることは、私たちが生きることと直結する営みです。生きることは食べること、食べることは生きるということです。午前中、共に礼拝をして、礼拝が終わったら二階へあがってごはんをいっしょにいただく。市ヶ谷教会では長年それが日曜日の過ごし方として定着しています。市ヶ谷教会だけではありません。多くの教会がそうやって日曜日を過ごしています。礼拝が信仰生活の中心であることはもちろんですが、食卓を囲んでいっしょにごはんを食べることも、信仰生活をするうえで、これも神様の恵みの分かち合いだと思うのです。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである」。きょうの福音書でイエス様は御自身をパンにたとえています。なぜここでこういう話題になっていったのかというと、7月の最後の礼拝で、五つのパンと二匹の魚で五千人に食事を与えたという奇跡のお話しがありました。その出来事から、パンが話題の中心になってきて、先週と今週の福音書へと続いてきています。
「天から降って来た生きたパン」というみことばが目を引きます。これは先週の福音書のなかにも出てきており、二週続けて私たちはこのみことばを聴いているのです。なぜ「天から降って来た」というような言い方をしたのか。これは6章を振り返ることで少し見えてきます。五千人への食事の出来事があった翌日になっても、群衆はあいかわらずイエスを追っかけていきます。そしてカファルナウムで群衆は、再びイエスと弟子たちを見つけます。群衆は、どんなしるしを見せてくれるのかと、しつこくイエスに迫ります。そこのやりとりで次のような会話があります、「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(ヨハネによる福音書6章31節)。群衆からの声です。これはモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、カナンの地までの長旅をしたときに起こりました。お腹がすいて死にそうだ、こんなことならエジプトにとどまっていた方がよかった、という不平不満が出始めました。そのときに主が天からマンナを降らせて彼らの空腹を満たしたという出来事です。イエスは群衆に次のように言います、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(ヨハネによる福音書6章32節)。マンナは神様が与えたパンであって、モーセが与えたのではないと言います。
そしてイエスは例のみことばを言うのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」。モーセではなく、パンは神から届けられたのだ、そしてわたしは、その天から降って来たパンなのだと言うのです。他の福音書には記録されていない、とてもユニークなみことばです。
さらにここを読み進むと、もっともっとユニークになります。普通に考えるとちょっと理解に苦しむようなたとえがこのあと続きます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。これを文字どおり解釈することはもちろん出来ないのですが、こうした聖書の中の言葉がのちのち、キリスト教会の歴史のなかで誤解を生むことになります。人の肉を食べるなどとは、キリスト教はひどく残虐な宗教だ、といううわさが出たりしました。
けれども信仰者は、聖餐式でいただくパンとぶどう酒がこの言葉から見えてくるのではないでしょうか。「これはわたしのからだである。わたしを覚えてこれを行いなさい」「これはわたしの血である。飲む度にわたしを覚えてこれを行いなさい」。そういってイエスがパンとぶどう酒を弟子たちに渡した、最後の晩餐のときの言葉です。そして私たちが聖餐式でいただくキリストの体であるパン、キリストの血であるぶどう酒のことです。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というイエスの言葉を、こうして聖餐式という脈絡から切り離して聞くと、いささかグロテスクに聞こえてしまいますが、最後の晩餐でイエスが遺言として残した言葉と併せて聞くなら、主の聖餐という恵みの出来事として受け取ることができます。
「わたしの肉を食べる」、「わたしの血を飲む」、生々しい表現ですが、このように聖書の教えはとても肉感的なのです。霊的なもの、霊性というものへの注目はもちろんたくさんあるのはいうまでもないのですが、「からだ」という肉体を軽んじることはないのです。霊性を強調するあまり、肉体を軽んじるというギリシャの哲学とか宗教もあるなかで、キリスト教では私たちが肉であるということ、すなわち肉性を重んじるのです。
食べる、飲むという普段していることは、生きるためにしている当然のことぐらいにしか思っていない私たちですが、聖書に照らしながら改めて考えると、これはとても宗教的であると申し上げたいのです。
生きるということは、そもそも宗教的、そんなふうに考えることはおそらくないと思いますが、肉体をもって生きるということは、命を神様からいただいて生きるということですから、これはとても霊的なのです。
昼食会が礼拝と一対になっているということを最初に申し上げましたが、そういう意味でも礼拝の後にいっしょにお食事をいただくというのは、楽しく、おいしく、ひととき過ごすということだけでなく、神の御心にかなった霊的な時間であり、大きな恵みなのです。
「森のイスキア」という施設のことを聞いたことがあるでしょうか。佐藤初女さんというカトリックの信徒の方がここを開設しました。青森県弘前市にある岩木山の麓にあります。何か特別な施設というわけではありません。いっしょにごはんを食べておしゃべりをするという何の変哲もないところです。佐藤初女さんは、ここでおむすびをむすびます。お漬物をつけます。そうして訪れる人々にごはんを振るまいます。ごはんをいっしょに食べながら、訪れる人たちの悩みを聞いたり、救いを求めてくる人々とひとときを過ごすのです。「おむすびの祈り」という本から一部引用します。「自然の素材の一つ一つには、皆かけがえのない命が宿っています。食べるということは、その命をいただくことだと、私は思っています。一つ一つの素材の命を生かすような料理をして、それをおいしくいただくことで、人も生かされます。病気だった私が、今、夜少しぐらい眠らなくとも耐えられるまで回復できたのは、そのおかげだと思っています」。
食べることは命をいただくことなのだ。私はきょうのイエスの言葉から、佐藤初女さんのこの言葉を思い起こしました。
きょうの旧約聖書「箴言」にも、意外な言葉があって目に留まったのではないでしょうか。知恵が語りかけます、「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」。意志の弱い者にはこう言います。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」。知恵の語りかけです。浅はかな人間に向かって、「わたしのパンを食べよ」と神の知恵が言います。「浅はかさを捨て、命を得るために」。浅はかな私たち、浅はかな命をも主はこのように語りかけて養ってくださるのです。神様の憐れみをここに見いだすことができます。食べること、私のパンを食べること。イエス・キリストのパンを食べること。
コロナ禍のために今は出来ないふたつの食事会のことが思い浮かびます。イエス様のパンをいただく聖餐式、そして交わりのひとときの昼食会。ふたつの食事会は、イエス様のいのちをいただく食事会、そしてイエス様と共にいのちをいただく食事会なのです。