説教「広がる現実」
ヨハネ11:17~53
四旬節第5主日(2014年4月6日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

四旬節の日曜日、キリストの十字架を思い起こしながら、きょうの福音書は人間にとっての最大のテーマ「生と死」について考えさせられるテキストです。

わたしたちはこうして日曜日ごとの礼拝で聖書から神のみことばを聞いています。そして説教を聴き、そのあと信仰の告白をしています。それを日曜日ごとに繰り返しているのです。なぜそうするかといいますと、それが信仰生活であり信仰を守る方法だからです。信仰を告白できて、素直に信じますという。これが信仰、私たちはそう理解しています。それはそれで正しいのです。

そういう信仰を抱く私たちはそれを唱えることで、その言葉の中に、目に見えない、この世界で起こる現実では推測できないところに、実は足を踏み入れているのです。そこに半分身を置きながら生きているのです。この世で生きていながら、同時に、今は知ることの許されないもうひとつの不思議な世界にも身をあずけているのです。それが信仰者の人生です。

一方で私たちは皆、礼拝で体験する信仰とはかけ離れたところにある現実社会を生きています。では現実とはどんなところかといいますと、それは人が自由に言葉を交わして作られる世界。言葉で見える世界のことです。言葉からどんどんとイマジネーションが膨らんで、大きな意味の広がりと可能性も次から次へと出来ていきます。コミュニケーションが豊かになると、その可能性はますます等比級数的に大きくなっていきます。インターネットの力によって、言葉や映像から生み出される人間のイマジネーションは、膨張し続けています。これまで知らなかったことが知れるようになっています。世界の片隅で起こっていたことが、今やだれでも知っています。自分にとっての現実は、こうしてどんどんと広く大きくなっています。

深い淵
この現実はどこまで広がり続けるのでしょう。ips細胞によってこれまで治療不可能だった病が治療可能になっていきます。これも現実の広がりといえます。人間の文明と英知は、夢を次から次へと現実にしていくことでしょう。けれどもどこまで膨らみ続けても、とれほど人類が進化しても、どうしても現実は現実を越えることはできないのです。たとえ冷凍保存して200年後を生きることが可能となったとしても、1億年前の化石から取り出したDNAで、なんとかザウルスという恐竜を現代に甦らせることができたとしても、現実には限界があります。越えられない淵があります。ことばのイマジネーションとことばのロジックを巧みに駆使しても、それでも見えないところが存在するのです。

信仰者が踏み入れている世界、「私は信じます」と日曜日ごとに唱えながら身を置いて、最後にいのちをあずけている見えない世界というのは、目の前の現実がどれほど大きくなっても決してたどりつけない領域です。その世界は現実の延長線上にはありません。越えられない淵があります。それが信仰の世界です。イエスが語る神の国です。

ラザロの死
ラザロが、死んで4日経つのに生き返ったという出来事がきょうの福音書です。これは現実の世界の出来事か、それとも信仰の世界のお話か。あまりにも奇妙で、現実では考えられません。あり得ないのでこれは信仰のお話、そう結論づけたくなるのが、理性的にことがらを考える人たちの行き着く答えです。マルタが「死んで4日も経ってますから、もうにおいます」。こういう言葉を聞くとますますそう思わざるを得ません。

けれどもこれは、おそらく現実の世界の話であると私は申し上げたいのです。1億年前の化石から取り出したDNAで恐竜が甦るのが未来の現実だとしたら、4日前に死んだ人間が再び生き返るのも、遠い将来には現実的になると考えることに、私には抵抗はさほどありません。私たちが「現実」というとき、それは自分の知り得る現実です。自分の知り得ない現実というのは世界に無数にあります。

きょうの福音書には、現実の言葉がたくさん出てきます。福音書記者ヨハネはそういう描き方が得意です。二人の姉妹マルタとマリアは、兄弟ラザロが死んだときこう言います、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。もし・・れば、もし・・したら、タラレバは私たちも頻繁に使う現実の言葉です。その言葉の裏側には諦めがあって、現実に打ちのめされて、そのたびに現実に跳ね返されている自分を見ています。マルタもその一人。私もその一人です。

マルタの信仰告白
マルタは、こうも言っています、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」復活を信じるとてもりっぱな信仰告白です。教会の礼拝でもわたしたちは使徒信条やニケア信条を使って毎週そのように神様にむかって告白していますが、マルタはこうも言います、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」ここにも文句の付けようのない信仰の告白があるのです。

主よ、あなたさえいてくれればラザロは助かったのに・・・と言って、マリアはイエスの前で涙を流しています。死の現実の前に悲しみにくれています。イエスを慕いイエスを信じ続けて、会うたびにそのつどイエスから熱心に神のみことばを聞いていたマリアですが、やはり現実に打ちのめされています。そういう姿しかみえません。イエスを信じて日々みことばを聞いていても、死の現実に呑み込まれてしまい、繰り返す信仰告白の言葉がむなしく響いてくるのです。信仰をもってしてもこの現実はやはり打ち崩すことができないということを、このマリアの姿と言葉で私たちは思い知らされます。

そんなマルタやマリアを前に、そして死んだラザロの遺体を前に、主イエスはことばを語ります。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。もし信じるなら。マルタもマリアもイエスを信じる信仰者です。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」そう告白する信仰者です。それなのに「もし信じるなら」と、今イエスは言われています。まるでふたりがイエスを信じていないかのように。

やがて信仰に生きる
私たちの弱い信仰はたしかに現実の壁にぶつかり、跳ね返されます。ですからラザロの死の現実を前に嘆き、涙をながして悲しむのです。その向こうがわが見えないからです。信仰告白をするたびに跳ね返されるのです。

主イエスは今、ラザロの復活という出来事によってこの壁を打ち砕いたのです。まだ見えない御国の世界を、イエスの言葉を信じて生きる人々に垣間見せたのです。

信仰しか手段はありません。信仰によってのみイエスが語り、行い、そして示してこられた神の世界に、私たちのほうからつながっていくことができるのです。きょうの福音書のなかでイエスがマリアに語ったひとことを今一度聞きましょう、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。「死んでも生きる」、この言葉は現実には存在しない表現です。わたしたちが生活の中で交わす言葉ではありません。これは信仰によってのみ受けとることができます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。これもそうです。信仰によってのみ、これに対してアーメンといえます。

この言葉に対してアーメンと言えるというのは、なんと大きな祝福でしょう。この言葉を信じることによって、目の前にたちはだかる現実の壁を乗り越えていくことができるのです。わたしたちは立ち往生しなくていいのです。

礼拝ごとにイエスの言葉を聴く。礼拝ごとに神をほめたたえる。そして礼拝ごとに信仰を告白する。毎週やっていると習慣になって、ただやっているだけで心がこもっていないのではと感じるかもしれません。こうしてわたしたちは現実を生きて、そのつど現実の壁にぶつかり跳ね返されては、また日曜日ここへ来てみことばを聞き、信仰を告白します。そしてまた跳ね返されます。

けれどもこれを繰り返していくうちに、目の前の現実の壁は少しずつもろくなっていきます。そしていつの日にか信仰の言葉が現実になります。現実を生きる私たちは、やがて信仰に生きるようになります。