説教「そのとおりに生きた人」
マタイ5:38~48
顕現節第7主日(2014年2月16日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」。これは旧約聖書出エジプト記やレビ記にある律法の言葉です。イランで出土したハムラビ法典という古い法典にも出てきます。「目には目を、歯には歯を」、生身に直接訴えてくる強烈な文言のせいか、その古さと歴史は知らなくても、世界中で広く知られています。聖書にもありバビロニアの法典にもあることから、当時すでに中近東からイランにかけて広く知られていたことがわかります。イエスがいうように、まさしく「あなた方も聞いている」そういう律法の掟です。
去年の流行語に「倍返し」がありましたが、どうやらこの古い律法や法典がほんとうに意図したところは、「倍返し」を禁じた掟だったようです。現代人からすると感覚的に理解しづらいのですが、仕返しをするのならここまでにしなさい、それ以上はいけない、という規定だったようです。そんな中、イエスは「しかし、わたしは言っておく」と前置きをして、そうした旧約聖書の律法の制限をも取っ払って、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)と言ってのけたのです。
「敵を憎む」ことは法的にとがめられません。むしろ当然のことと受け止められます。敵が自分を攻撃してきたら自分のいのちを守る、攻撃してくる相手に対して反感を抱く、これは許されること、そう言っていいと思うのです。自分の命を守る自由と責任、あるいは権利、それをわたしたちひとりひとりはもっているのです。そういう権利を有するわたしたちに、きょうのイエスの言葉は何を問いかけているのでしょうか。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(40節)。いかなるリベンジをも禁じたこれらの言葉から、私たちは何を聞き取ればよいのでしょうか。
憎しみという感情は処理をするのにとてもやっかいです。ひとたびそれを抱いてしまうとなかなか消せません。その感情に引っ張られて衝動的に良からぬ行動をしてしまうとするならば、それを主の前に正当化することはできません。
ハムラビ法典や旧約聖書の時代に遡ってこの言葉を解釈するなら、先ほども言ったようにこれは倍返しを禁じた掟です。ここまでならやってよい、ではなくて、これ以上はダメだという掟です。そういう意味では人のいのちを守ろうとしているのです。このことはとても大切です。
人間社会に生きる私たちは、人と人との関係を何を基準に作るべきか、この社会は弱肉強食なのだから、うかつに人を信用してはいけない、気をつけなさい。これを基準に人間関係はつくるべきでしょうか。弱肉強食を生きるうえでのモットーとすれば、いのちを守るためにそのような教えも起こりえます。けれどもそうした人生観は、大切なことを見落としています。それは、人は誰一人自分一人では生きていけないということです。わたしたちが生きることができるのは、人とともに生きているからだです。共に生きる、自分といっしょに他者のいのちも大切にすることをしなければ、人間は生存できないのです。憎しみを基準にするか、それとも愛することを基準に生きるかといえば、答えは明らかなのです。
そうは言ってもきょうのイエスのみことばは、現実社会の中で実践しようと思うと、ちょっと厳しいというのが、正直なところではないでしょうか。「悪人に手向かってはならない。右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい。だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」。若い方たちならできるかもしれません。意志の強い人ならぜひ実践してみてください。けれども大半の人にとっては、「ちょっとそこまでは」と思ってしまうのではないでしょうか。
「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」(41節)。ミリオンという距離の単位は、現代のメートル法の元にもなっているローマの単位です。聖書には別のところでギリシャの単位で「スタディオン」というのがたびたび出てきますが、スタディオンのほうがずっと多く使われています。けれどもイエスは、ここで敢えてローマの単位ミリオンを使います。それなりの意図があったからです。
当時のイスラエルはローマの支配下にありました。ローマ軍が駐留していたのです。支配する国の兵士たちが、支配されている人々をどのように扱うか。それが歴史の中でとても大きな問題になるのは、今も残り続ける従軍慰安婦問題をみたらよくわかります。少なくともユダヤ人たちの多くは、ローマに対してあまり好意的ではありませんでした。強いられたりしたことがあったとしても不思議ではありません。右の頬をぶたれたり、下着を剥ぎ取られたり、そして強制的に1ミリオン行かせられたり。いわれなき理由で強いられるという屈辱を感じることがたびたびあったことは、容易に想像できます。イエスの「ミリオン」というひとことには、そうした当時の社会の様子と、イスラエルの人たちの不満が一杯つまっているのです。屈辱を受けたら、憎しみがわき上がってくるのは当然なのです。これらの言葉を語るとき、人間の崇高な倫理とか、普遍的な道徳を、イエスは上から目線で語っているのではありません。民衆と同じ高さの目線から語っているのです。
ここだけに限らず、このようにイエスが山上の説教で描いた世界こそ「神の国」なのです。イエスは神の国を言葉で示しておられるのです。この世を生きている人々に、神の国を描写したのです。
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。イエスは、この世の常識からかけ離れたことを語りました。たしかに、政治の世界でこのような発言をしても、あまりにも現実離れしているので、これでは選挙で当選しません。天使の羽を身につけたスマイル党の候補者の政見放送をたまたま見ましたが、それと同じぐらい相手にされないでしょう。
けれども、この世の発言ではないからこそ、このみことばに耳を傾けるべきなのです。わたしたちはイエスに従いこう祈ります。「御国を来たらせたまえ」。御国が来るのを切にわたしたちは願っているのです。イエスの支配がこの世に起こることを繰り返し祈り求めているわたしたちです。実は、この世の言葉だけで考えていても、御国はやってこないのです。
御国を来たらせたまえと祈り、山上の説教の言葉にアーメンと唱えながら、いつかどこかでこの地上の国が、神の国と接することを私たちは求めているのです。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るなんて、今はあり得ないと思うけれども、ほんとうにそうだと思える日がいつかやってくるのを、わたしたちは祈り求め続けて、諦めてはならないのです。
教会讃美歌382は次のように歌います、「ここは神の世界なれば、あめなる調べは四方に聞こゆ」「ここは神の世界なれば野百合も小鳥も神をたたう」。わたしたちが生きているここは、神の世界なのです。そうはなかなか見えないけれども、この讃美歌が歌うように、自然が織りなすひとつひとつのすべてが、ここは神の世界であることを表してくれます。美しい自然に心打たれるとき、そのひとつひとつが人間の手によっては作ることのできない、神様の創造によってのみ実現すると知ったとき、神様のいのちに気づくことができます。
けれどもそれは、そうした自然の美だけではないはずです。わたしたち人間も、自然の中に生きるいのちであって、神様に創造していただいたのです。そうであるならば、この人間であるわたしたちも大自然と同じく、神様の世界を表すことができるのではないでしょうか。できるはずなのです。ただ私たちは、聖書がいうところの「罪」、すなわち曇った心がいつもよぎるので、人間が神様の世界を表すなんて思えないのですが、ほんとうは人間も「ここは神の世界です」と示すことができるのです。
わたしたちの言葉、そしてわたしたちの行い、それらによってこの世界が神の国であることをちゃんと示すことができるのです。宣教とはまさしくこのことです。この世界が人間の世界ではなくて、実は神の世界であると私たちが示すこと、それが宣教なのです。
もう一度最後にイエスの言葉に目を向けたいと思います。イエスは群衆に向かって言いました、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。このようにイエスは語り、やがて十字架へと向かっていったのです。十字架というのはほかでもない、右の頬を打たれたら左の頬を向けることだったのです。山上の説教でイエスは言いました、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。そのイエスは十字架上でこう祈ります、「父よ、彼らを赦したまえ、自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。この祈りこそ、まさしく自分を迫害する者のための祈りだったのです。
山上の説教のみことばの中に、そのとおりに生きたイエスを見ることができるのです。