宣教70周年記念礼拝説教
「前方よし! 出発信仰」
ルカによる福音書 5章1~11節
渡邉純幸牧師
聖霊降臨後第3主日(2022年6月26日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)

 ヘレン・ケラー女史は、生後一歳半のとき、高熱に伴う髄膜炎に罹患(りかん)し、一命はとりとめたものの、視力、聴力を失い、更に話すこともできないという三重苦に見舞われました。しかしその彼女が後に、「ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気づかない」という有名な言葉を残しています。

 本日の聖書は、イエスの弟子になるという漁師たちの大きな人生の転期が記されています。彼らもまた、目も心もすべて奪われ、閉じてしまったドアを見続けていたのでしょうか?

 この聖書の箇所は、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に共通した記事で、マタイとマルコ福音書には、漁師のシモンたちに声をかけると、すぐに網を捨て、舟や父を残して、イエスに従ったとだけあり、その動機というか、理由や当時の状況が明確ではありませんが、本日のルカ福音書は、その理由と背景が、他の福音書より明確に記されています。

 話はこうです。イエスがゲネサレト湖畔に立っていると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきました。そこに漁を終えて網を洗っている漁師たちが目に入りました。イエスは彼らを「ご覧に」なり、シモンという名の漁師の舟に乗り、湖畔から少し漕ぎ出すよう頼みました。それは、舟から大勢の人々に話すためでした。イエスは群衆に話し終えると、漁師のシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのでした。それに対してシモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えたのです。イエスの言葉通りに網を降ろしたところ、網が破れるほどの大漁で、もう一そうの舟と漁師仲間の助けを必要とするほどでした。これを見たシモン・ペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言って、イエスの足元にひれ伏したのでした。そのシモン・ペトロにイエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、ペトロとその仲間のゼベダイの子ヤコブとヨハネたちは、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と聖書は記しています。イエスの言葉をとおして、漁師のシモンたちに、何が起こったのでしょうか?

 元パリ大学教授で哲学者の森有正氏は、著書「土の器に」の中で信仰と信頼について次のように記しています。

 一般に信仰は信頼の一種ではないかとか、信仰と信頼とは一番近いものと考えがちであるが、本当は、一番遠いもので、信仰は信頼の一部ではないと言われます。

 たとえば、ある競技会に選手を送る場合、非常に早く走る人がいて、過去にもよい記録を出し、現在の健康状態も良いとすると、人は積極的な結果を期待して、その人を信頼して競技に送り込むことができる。つまり信頼とは、何かその人に対して頼る、その人を当てにする積極的な理由のある時に持つことができる。ところが信仰とは、信頼の念を起こさせるような積極的な要素を欠いていたり、好ましい要素がないにも拘らず、ある一つのことを本当であると信じることである。キリストは、信頼ではなく信仰を求めておられる。そして逆に、信頼の基準に立って判断し識別している生き方、これが実は聖書でいう罪という姿を示しており、人間と人間の関係、人格と人格の関係というものは、本当の意味では信仰によってでしか維持することのできないものと言われます。 では、その信仰とはどのようなものかということですが、その例として、山があり、その山に人が、例えば父親が立っているとします。子供は山の上まで上がれず、下から見ています。そして父は、向こうには山があるとか川があるとか言うのですが、子供には声だけで、それを確かめるすべはありません。ただそのような景色があれば子供は見たいと思います。そう思えば、父親の言っていることが本当だと信じて、そこまで登っていく勇気を持ち、信じることができるのです。登ればわかるのですが、それは後のことで、後で分かることを、信仰によって先取りしなければならないということになります。この信じて仰ぎ、登っていくということを信仰という、と言われます。

 さて、イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」の言葉に対して、シモン・ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。積極的というよりも、そこには夜通し苦労して働いたが、その結果何の収穫もなく、徒労に終わったという事実は、人生の挫折にも近い極めて消極的な響きの言葉のようです。この「何もとれませんでした」という言葉には、ペトロのみならず、私たち誰もが、遭遇する、あるいは遭遇している苦悩や挫折、絶望といった事柄と共通するものがあるようですし、私たちの代弁としての言葉でもあるようです。これまでの長い経験から漁師としての感のような研ぎ澄まされた自信をもって、最も多くの収穫を手にできるであろう時間と場所を見計らって漁に出たはずです。しかし、それはペトロたちの期待を大きく裏切り一生懸命、努力をしても、思い通りにならず、報われないものでした。彼らの経験も感も、そこでは何の役にも立たなかったのです。

 人は、その働きと努力が報われたとき、それは疲れがあったとしても、心地よいものに変わりますが、その努力が報われなかったとしたら、疲れは何倍にも加算されるものです。本日のシモン・ペトロも働きが徒労に終わり、疲れと苦悩にも似た思いを抱いて、網を洗っていたに違いありません。できれば、網を洗うことよりも、一刻も早く家に帰ってその疲れを癒したいと思ったかも知れません。そのような時に、イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」という言葉は、疲労と苦悩という火に、油を注ぐようなものであったことは、容易に想像できます。あるいは、イエスという評判のよい男であっても、所詮、漁のことは何も分かっていない素人のイエスが‥‥との思いも、シモン・ペトロは抱いたかも知れません。

 この姿は、ある意味で私たちの姿をも写し出しているようです。私たちは、それぞれに自分の自負心とこだわりを持って生きています。どうしても、素直に譲ることのできないこだわりです。自分流の見方とやり方は、長年の経験に裏づけされたものです。それに対して、それを無視するかのように、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」というイエスの言葉は、弟子たちのみならず、今の私たちにも向けられているもので、どこか違和感を覚えずにはいられません。そしてそれは、私たちの心の中に、言いようのない葛藤を生むことになり、私たちの口から出る言葉は、弟子たちと同じく、「何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」となるのでしょう。

 それ故に、大漁を前にしてペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言わずにおれなかったのは、イエスを受け入れることができず、疑って見つめていたペトロが、悔いた言葉として発したものと言っても過言ではないでしょう。 では、イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」と言われる「沖」とは、一体何を指しているのでしょうか。それは言うまでもなく、自分の思いや考え、自分のこれまでの経験や価値観の中にあるものではなく、それらをすべてを拒絶し、放棄させる領域と言えましょう。あるいは、この沖は未知の領域で、シモン・ペトロの知っている領域、漁師として経験済みの領域とはまったく異なるもので、私たちの経験や確かさ、自負心等をすべて拒否し、覆す領域であるということでしょう。今イエスの言われる「沖」とは、まさに人間の領域から、神の領域を示しているのです。そして、ここで放棄できないペトロの思いや、考えを大きく覆す「大漁」という出来事が起こったのでした。自分の経験と確かさの延長線上で見ていたペトロは、これまで経験したことのない奇跡をイエスの中に見ることになったのでした。

 すると聖書の「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようお頼みになった。‥‥沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」という聖書のくだりは、私たちに大きな力と勇気を与えてくれていることに気づかないでしょうか?それは、イエスはシモン・ペトロの漁がまったくなかったという彼とその仲間たちの置かれた状況を「ご覧に」なり、つまり私たちの人生の八方ふさがりで、何の解決をも見出すことのできない状況を「ご覧に」なり、なお、「沖に漕ぎ出しなさい」と、救いの手を差し伸べて言われているのに気づくからです。

 先ほどの森有正氏は、信頼は自分を中心とする、自分を満足させるものでしかないけれども、信仰は、「登ればわかるのですが、‥‥後で分かることを、先取りしなければならない」、山の頂きに立つイエスの声を信じて登り続ける様であると、信仰の持つ意味を言われました。

 また、聖書では「イエスの十字架の傷に、自分の指を差し入れなければ信じない」と、復活のイエスに対して、実証主義的に、見たもの触れたものが唯一絶対の確かなものと思っていたトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書20章27節)と傷を示されるイエスの姿が記されています。

 あの想像を絶する苦難を背負って生きたヘレン・ケラーは、「ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、しばしば私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気づかない」と言われ、私たちに、またペトロをはじめ弟子たちに、閉ざされたドアだけではなく、開かれているもう一方のドア、すなわち信仰のドアがあることを告げています。

 そして、本日の聖書のペトロは、過去へこだわることなく舟を置き、未経験の、未知の新しい歩みを始めたのでした。

 信仰とは、まだ見ぬ出来事を信じて、触れることの出来ない方へすべてを傾けて従うことなのです。私もこれまでの47年間の牧師生活の中、思い通りには行かず、高い壁にぶつかり、悩み、たじろいだことは何度もありました。そんな時は、必ずと言って良い程、本日の箇所を何度となく読み返したことを思い起こします。これからもそうでしょうが、壁にぶつかり悩み苦しむ時は、自分の世界の領域の「沖」であって、イエスの言われる「沖」とは異なっているということです「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」と、イエスはご自身を示され、信じることを強く促しておられます。どのような状況に置かれても、解決の糸口を見出すドアは開かれています。神さまは、最も良いものを示され、歩ませて下さる方です。

 今年、宣教70周年を迎えた市ヶ谷教会は、1952年6月、千代田区一番町の N・ヌーディング師宅で、学生を集めて第一回目の礼拝が守られ、その翌年の1953年、現在の市谷砂土原町一丁目一番地で、学生センター献堂式が執り行われました。これまでの歴代教職、そして信徒、信仰の先達の働きをとおして、多くの洗礼者が与えられ、今年祝福の70年を迎えることができました。   

 これから始まる新たな第一歩もまた、神さまは私たちに、一人ひとりに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と声をかけて下さっています。私たちが、今抱えている苦悩も、絶望も喜びも、またこれから遭遇するであろう悲しみも苦しみも、幸いもすべてを知り尽くされ、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスは今日、私たち一人ひとりに、告げられているのです。どのような季節を迎えようとも、また私たちは想定外の困難や悲しみの季節に遭遇しようとも、すべてを知り尽くし、先取し、守り導いて下さっている神さまが、『前方よし! 出発信仰』と、声をかけて下さっているのです。私たちもすべてを委ねて、絶えず神さまが示される沖に向かって、共に感謝をもってこれからの新しい日々を歩み続けたいものです。