説教「塩と光の人」
マタイ5:13~16
顕現節第5主日(2014年2月2日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

顕現節の今
クリスマス以来、わたしたちは顕現節という教会暦を過ごしています。クリスマスも含めて、顕現(英語でエピファニー)というのは、わたしたちにいのちを与えたもう神が、地球という星に生きるわたしたちに御自身を顕された、お示しになったという意味です。どのようにお示しになったかというと、肉をとり人となって顕れ、イエスとして御自身をお示しになったのです。

この世の理屈ではとうてい考えられないような、摩訶不思議な現象によって出現するとか、聖書に書かれていることいないことを含めて、神様のおでましの仕方にはいろいろあるわけですが、そうしたなかでも神は敢えて人イエスとなって顕れたのです。それが顕現です。

みことばによる顕現
人間イエスとして現れたのは、そうすればわたしたちに伝わりやすいからです。あっと驚く神業で人々をびっくり仰天させて、私はあなたの神だよ、黙ってわたしに従いなさい・・・。そういう顕れ方でなく、わたしはこういう神なんだということを、人として地道に社会の中で共に生きて、神とはだれなのかを示したのです。

聖書にはイエスが数々のわざや働きをしたことが記されています。その中でもイエスが最も多くの時間を費やしたのは、人々とともにいて、そうしたなかで語ることだったのではないでしょうか。聖書には数々のわざも記録されています。人を癒したりといった、それこそ神がかり的な出来事も登場していて、そうしたひとつひとつにわたしたちは目も心も奪われがちですが、神の子イエスが一番多くやったことが何かといえば、それは語ることでした。主イエスは言葉によって御自身を顕されたのです。あるときはファリサイ派の人との議論で、あるときは食事の場で、またあるときは大勢の人たちを前にして、イエスは語ったのです。言葉によって御国を示し、言葉によって神様のことを顕現なさったのです。そうしたなかできょうの福音書は、山上の垂訓と呼ばれて知られている言葉、言葉による顕現の場面です。こうして言葉で語ることで、神は御自身を顕されているのです。

どう聞くか
ことばによる顕現を、聴く側のわたしたちがどう受け止めるか、これが問われています。言葉は、いってみれば言葉でしかないではないか。なにげないおしゃべりに使う言葉、誤解されやすく、こちらの意図がうまく伝わらないコミュニケーション手段。民族が違うと言語も異なり、より一層意思の疎通が難しくなったりする、節穴だらけの言葉。

たしかに言葉にはそうしたほころびがたくさんあります。けれどもわたしたち人間が、思いや気持ちや考えを受けとったり、それを相手に伝えたりするには、やはり言葉が一番なのです。神様のみ旨やご計画、人々とのつながり方をわたしたちが知ろうと思えば、それもやはり言葉しかありません。むしろ問われるのは、その言葉を聴くということ、その受け方なのです。

イエスが語る言葉を、「ふーん」と言って、自分とはあまり関わりのない、わたしたちの生活の中でいつも飛び交う、ごく普通の言葉として聞くことももちろんできます。あるいは「なるほど、さすが歴史に名を残すだけの人が語った言葉はいいこと言うなあ」と、注目をされて、いつかどこかでこの言葉を役立てよう。そのように一歩踏み込んで、この言葉を前向きに聞くこともできます。

そしてもうひとつの聴き方は、イエスの言葉を信仰をもって聴くという聴き方です。信仰をもってとは、イエスが語ったこの言葉は、わたしたち人間の口からでる言葉とは違っているということです。これを神の言葉、みことばとして聴くという方法です。きょうもこうして礼拝しているわたしたちは、この最後の方法、神の言葉としてこれを聴いているのです。

第一コリント書に「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせる。」(1章17節)という言葉があります。そしてその直後にこう続きます、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。パウロは神の言葉のことを十字架の言葉と呼んだのです。人が語る人間の知恵の言葉ではない。そういう言葉はいくらでも巷にあふれています。そうではなくて、同じ言葉でも、わたしたちが敢えて聴くイエスの言葉というのは、人からは出てこない言葉なのです。パウロ曰く「十字架の言葉」という、なんだかつかみどころのない言葉、けれどもそこに、この世の秩序と常識で推し量ることのできない、時間も空間もつんざくような、真理の言葉を聞くのです。それが信仰によって聴くということなのです。

「あなた方は地の塩である」、「あなたがたは世の光である」というこの言葉は、わたしたちの中からは出てこない神の言葉なのです。そしてこのことばは、わたしたちのいのちにかかわる何らかの真理をついている言葉なのです。

正反対の塩と光
ふたつのみことば、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。塩と光、自然界の中にあるこのふたつは、いずれも生きていくためになくてはならないものですが、それを取り上げてあなたがたは塩だ、光だとイエスはいうのです。いずれもなくてはならないのですが、ちょっと考えてみると、このふたつはとても好対照な性格をもっていることに気づかされます。塩というのは、最初は白い結晶の形ですが、その結晶が溶けて無くなることで初めて塩味がでます。姿を消すことで持ち味を発揮するという特性があります。目立たず控えめ。けれどもなくてはならない、それが塩というものです。誰にも気づかれない、陰の立て役者が塩なのです。

もうひとつの光はどうでしょうか。こちらはまったく正反対で光はとてもよく目立ちます。真っ暗な中であれば、小さなローソクの炎だってくっきりと見えます。すべての人のまなざしが光に向かいます。注目を浴びるのが光です。このようにまったく正反対の性格をもつ塩と光を取り上げて、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」、とイエスは語るのです。

引っ込み思案で内気な人、人前に出るのが苦手な人がいるかと思えば、人前にでることを何とも思わず平気でしゃべったり芸をしたりするのが得意な人も世の中にはいます。目立つのがいやな人なら、「あなたがたは地の塩である」と言われても、きっとその言葉を大切にして生きていこうとするでしょう。けれども内気で目立つのが苦手な人に向かって、「あなた方は世の光である」と言われても、たぶんとても困ると思うのです。そんなことわたしにはとてもできないと感じることでしょう。その逆もまたしかりで、目立つことが平気な人なら「あなた方は世の光」という言葉を「アーメン」と言って喜んで聞くでしょうけれど、そういう人に「あなたは地の塩になりなさい」と告げても、納得がいかないのではないでしょうか。このふたつがこうして並んでいると、イエスはわたしたちに対して、まったく異なる性質のふたつを両立させなさい、苦手などと言わずそれを克服してでも、あなたは光になりなさい、塩になりなさい、そんなふうに言っているようにも聞こえてきます。

イエス自身が地の塩、世の光
聖書を読むと、たしかにイエスは地の塩でもあり光だったことがわかります。両方の働きをしていたのです。差別された人、社会からはじき出され相手にされなかった人たちといっしょにいたときのイエスは、地の塩でした。けれども人を癒し、二匹の魚と五つのパンで5,000人を満たしたときのイエスは、今度は光でした。

どうやってふたつでいられるか
ではわたしたちはどうやってイエスのように、地の塩でありなおかつ世の光として、それぞれの持ち味を発揮しながら、生きていけるのでしょうか。イエスの呼びかけに注目してみたいと思います。イエスは「あなたがた」と複数に呼びかけています。これは、群衆を前にして言っているので当然そうなるわけですが、個人ではなく、集団にむけてそう言っている点に注目します。ひとりで二役は無理でも、共にいることでそれができるようになるのです。イエスの名のもとにいっしょに集い、ある人は塩になり、ある人は光になることができます。集まることで「わたしたち」は、塩であり光なのです。教会というのはまさしくそういうところです。塩の人が光となり、光の人が塩となれるのです。つながるひとりひとりが塩になり光になり、わたしたちがイエスの働きを担うことができます。

究極の地の塩、世の光
イエスという人は、やはり類い希で、ひとりで地の塩であり世の光でした。人間社会のなかでイエスは人目につかないたくさんの働きもしましたが、同時に別のところではとても目立つわざをもなさいました。地の塩として世の光として生きたのです。けれどもそれだけではありませんでした。

主イエスはそれを極みの極みまでやり遂げたのです。イエスは、地の塩として十字架にかかり姿を消しました。わたしたちの救いをそのように成し遂げられたのです。そしてその三日後に、イエスは復活し、まばゆい光として輝いたのです。主が人々に語ったことばは、こうして神の言葉となり、わたしたちの間で今も生きているのです。