説教「幼子に従う」
マタイ2:1~12
顕現主日(2014年1月5日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

年が明けて最初の日曜日は、クリスマスの次に来る教会暦の顕現節最初の主日にあたります。以前にもお話していることですが、これはもうひとつのクリスマス、主に東方教会が伝統的に守ってきたクリスマスなのです。プロテスタントやカトリック教会といった西側の教会は、この東の教会のクリスマスを顕現日、すなわち神がこの世に現れ出でた日として教会暦に組み込むことにしたのです。そしてその日は1月6日と決まっています。クリスマスが12月25日で固定日なのと同じですね。日本の教会では日曜日以外に礼拝を守ることはなかなか難しいので、固定した1月6日ではなくこの日に最も近い日曜日を顕現主日と呼び、この日曜日に主の顕現を覚えて礼拝しています。

教会を西と東に分けるとカトリックとプロテスタントが西側の教会で、東方教会が名前の通り東側の教会です。これがキリスト教会を大きくわけたときの二大主流です。どちらがより古いのか、どちらがイエス・キリスト以後も、弟子たちが引き継いだ礼拝の原型を守り続けているかといえば、明らかに東側ということになります。イエスはユダヤ人なので東側の人間でしたし、そこにキリスト教のルーツがあるわけですから東ということになるのも納得がいきます。

ところが実はもうひとつあります。西側とも東方教会のどちらにも属さないけれども、キリスト教の歴史を語る際には無視することのできない教会がもうひとつあるのです。それがコプト教会です。そしてコプト教会は、自分たちこそ最もキリスト教のルーツに近く、最も古いキリスト教会なのだと自負しています。エジプトの国民の10%はコプト教会の信者だと言われています。イスラムの国という印象が強いのですが、10%いるとなるとかなりの規模です。福音書にもエジプトが登場しているのに気づいた方もおられることでしょう。マタイ福音書2章13節に書いてありますが、イエスが誕生したあと、身の危険を知らされて、マリアとヨセフは我が子イエスを抱きかかえて逃亡の旅に出ますが、この聖家族がむかった先がエジプトだったのです。

このコプト教会のちょっとおもしろい伝統を紹介します。先ほども言ったようにコプト教会は西にも東にも属さないので、コプト教会の法王がいます。その選び方がとても興味深いのです。これまで40年以上にわたって法王だったシェヌーダ三世が昨年3月に亡くなり、新しい法王を選出することになり、去年それが行われました。どうやって選ぶかというと、法王候補者名が書いてある数枚の紙切れを聖餐式のカップのような容器に入れて、その中からくじで引いて決めるというのです。そしてだれがそのくじをひくのかというと、6歳の少年でした。少年が目隠しされて、聖杯の中に手を入れ、その中の紙切れを一枚取り出すと、そこに書いてある名前が新しい法王となるのです。小さな子どもがくじを引くのは、子どもこそ邪心や汚れから最も縁遠く、純真な心を保っているからだとされます。彼らは人間の計画とか企てを極力排除して、定められた運命として選ばれた人を長として受け入れていくのです。

エジプトは今社会がとても揺れています。こうしたときの教会の首長は大変です。以前の法王はずっとムバラク政権を支持してきましたが、今回新たに選ばれたタワドロス二世は、法王として政治的な立場をとらないことを宣言しました。人々の霊的なニードに応えることこそ教会の本来のすべきこととして、改革を訴えているといいます。政治と宗教は、いずれも人々の幸福な人生そして生活のためにあるという共通点がありますが、組織としてはまったく別です。別なのですが、時に切り離すのが難しかったりします。きょうの福音書を読むとそのことを考えさせられます。

クリスマスは決してきらびやかで聖なる出来事ではないことがわかります。3節「ヘロデは不安を抱いた」。ユダヤの新しい王が誕生したと聞いて、ユダヤを統治していたヘロデ王は落ち着きをなくします。7節「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せた」。そして8節のヘロデ王の言葉、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。聖書に触れて間もないころ、私はこれを単純に読んでいて、ヘロデ王もイエス様の誕生を喜んで、いっしょにお祝いしたいんだろうと思いながら読んでいました。実際はその正反対で、ヘロデはイエスのいのちを奪おうとしたのです。クリスマスのお話には政治的策略があり、命をねらう者とねらわれる者が描かれているのです。

顕現という言葉はエピファネイアというギリシャ語の翻訳で、神がイエス・キリストとなってこの世に現れ出でたという意味です。万物を創造した神は人間を創造したお方なので、創造された人間では決してないのですが、それでも敢えて人間の形をとって、すなわちイエスになって、人間として神のみ旨を人間にお示しになったのです。天からの啓示として神秘的な囁きを預言者に伝え、預言者に託するのではなく、民衆の中で人々と生活しながら、神の御心を直接人々に伝えたのです。

そのことを忘れてクリスマスの物語を読むと、これは政治の世界のスキャンダルでしかない。うがった読み方をする人ならば、幼子に贈ったプレゼント、黄金、乳香、没薬は政治資金規正法に抵触するのではないか、あの都知事が受けとった5,000万に似てないか、そんな話にも発展しかねません。話題があまりにも世俗にぶれてしまいました。

この物語がクリスマスストーリーとなり、キリスト教会がずっと伝え続けているのは、ここに神様が生きて働いておられるからです。人間の醜い策略や疑いが絶えないなか、そういう出来事の中にも神がご自身を顕されるからです。世俗的、日常的な出来事の中にわたしたちは浸りきっているので、その中から聖なる神のことばやみ旨、計画を聞き分け見分けるのはとても難しいことです。けれども顕れ方があまりにも世俗的だからといって、そこに神が働いておられないということには、まったくならないのです。たとえどんなに世俗にまみれていようと、神はご自身を顕されるのです。それが顕現という出来事です。

世俗の中で起こるこうした神の働きは、普通は人間の感覚で知覚、あるいは体験できるものではないため、聖書はそれを光で表現しました。たしかに、クリスマスや顕現でわたしたちに神様を予感させてくれるのは、クリスマスを象徴する光です。ヨハネ福音書の中では、このことが特にはっきりしていて、「全てを照らす真のひかりが世に来た」、イエス・キリストの誕生のことをそのように表現しています。

あるいはきょうの福音書にも光があります。東の国の学者たちが見たベツレヘムの星。その輝きが、不安と恐れがうごめくような暗い世の中であっても、神の出来事がここに起こったことを告げてくれています。あるいはきょうの旧約聖書イザヤ書60章の一節、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」。この預言の言葉も、わたしたちに神の存在、神の働き、神が生きておられることを告げています。

星の光に導かれた学者たちはイエスの前で何をしたでしょうか。「ひれ伏し、拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました。クリスマスページェント劇のクライマックスがここにあります。

きょうの説教で冒頭にお話したコプト教会のお話を、もう一度思い起こしてみましょう。2013年、新しい教会の指導者を選ぶとき、彼らは6歳の少年にそれをさせました。経験と知識を積んだ大人ではなく、幼子が、しかも目隠しをして選びました。信仰が生きているからこそ、そういう方法が意味をもつのです。幼子の手が引く一枚の紙切れが、明日の教会を決めるのです。そして信者は、それがだれであろうと、選ばれた人に託すのです。その強い信仰と決心に驚かされます。

生まれたばかりの幼子を拝む優秀な学者たち、小さな少年の手にすべてを託すコプト教会の人たち。経験と知識を用いて計画を立て、策を練りながら明日を生きようとする今日の社会に生きるわたしたちは、この幼子に注目するという生き方をいつの時代にあっても忘れてはなりません。人間の浅はかな知恵にでなく、幼子が放つ光の中にこそ、まことの答えがあるのです。