説教「子ロバの威厳、気品、風格」
マタイ21:1~11
待降節第1主日(2013年12月1日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

今年の7月イギリスのウィリアム王子とキャサリン妃の間に赤ちゃんが誕生し、イギリス国内だけでなく、世界中が注目しました。日本のメディアも連日報道していたことを思い出します。赤ちゃんはジョージと名付けられ、新しい王子が誕生しました。どのテレビに映しだされる映像も、王室一家の笑顔と気品にあふれ、まぶしいばかりに華やかだったことが今でも思い出されます。これが世間が喜ぶロイヤルファミリー、ロイヤルベビーの誕生です。いつの時代もわたしたちが求めてやまない、気高く美しい王室のあるべき姿です。威厳、気品、権威、風格。王様、女王様にはこれがなくてはいけない、そう思うのです。

わたしたちはきょう、ひとりの王様のお話を聖書から聞いています。福音書記者マタイは、この王様をゼカリヤ書の預言の成就としてとらえました。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる』」(5節)。シオンの娘というのはイスラエルの民、ユダヤ人たちのことです。「あなたがたユダヤ人の王がおいでになる」、このように語ったゼカリヤのことばが、今起こったのだと、マタイは語るのです。ここに描かれているのは、新しいユダヤの王のエルサレム入城なのです。イエスを王様としてここに福音書記者は描いているのです。

マタイといえば、クリスマスのとき必ず読むマタイ福音書の冒頭の記事が有名です。ヘロデ王の時代にひとりの赤ちゃんが馬小屋で誕生、その赤ちゃんを訪ねて遠く東の国から占星術の学者たちが長旅のすえエルサレムにやってきて、こう尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2・2)。マタイにとって、イエスは明らかにユダヤ人の新しい王様なのです。

けれども聖書に出てくるこのイエスという王様は、いったいどこが王だというのでしょうか。イギリス王室一家の微笑ましく美しいお姿と比べると、きょうの福音書に出てくるイエスのいったいどこが王様といえるのでしょうか。そもそもなぜ、マタイはこのようなイエスを王様とみなしたのでしょうか。

イエスが用意してほしいと弟子に願ったのは、子ロバでした。「それをほどいて、わたしのところに引いてきなさい」。「もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」。このイエスの言動を評して、マタイは、これぞゼカリヤの預言の言葉そのものの実現なのだ、とあてはめたのです。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。

ロバ、それも子ロバにまたがる王様の姿など、わたしたちは想像できません。気品と威厳と風格が、ロバでは出ないのです。子ロバではとてもではないけれど、王様に似つかわしくないのだと、わたしたちはみなすのです。

当たり前のことを言いますが、わたしたちは王様ではありません。少なくともここに集まっているだれも、王様の威厳と気品と風格を持ち合わせてはいません。威厳と気品と風格のないわたしたちは、それがとても素晴らしいことだとみなし、ひょっとするとそうした威厳と気品と風格に私も一歩でも近づきたいと、日頃から願って生きているのかもしれません。自分ではそんなことない、というかもしれないけれど、無意識のうちに、ひょっとしてそうかもしれません。テレビや新聞で登場する華やかな人々の生活ぶりを見て、エレガントを演じるスターたちのファッション、言葉づかい、知識人の考え方に触れていくうち、そこにちょっとしたあこがれを抱いたりしている日々を過ごしているうちに、自分ではそのつもりはなくっても、威厳と気品と風格をもった王様になろうとしているのです。世間が、社会がもてはやす姿、ふるまいを、いつのまにか自分も理想と思い込み、それがあってこそキングなのだと決めつけて、そうした風潮に抗うことができなくなっているのです。王様ではないわたしたちにとって、王様は、やはり威厳と気品と風格があり、カメラのフラッシュを一斉に浴びる人なのです。悲しいかなそこに理想を重ね合わせてしまって、少しでもそこに近づこうとして生きているのです。王様ではないわたしたちは、そういう王様をいつも追い求めているのです。それがわたしたちのありのままの人間であり、この世はそこに熱い視線を向けて、一切疑問を挟もうとしません。

聖書は告げる、『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』。王は柔和で、ロバに乗っている。重たい荷物を背中に乗せて、トコトコと子ロバにまたがってやってくる。・・・これがまことの王様の姿なのだと、マタイはわたしたちに告げているのです。あなた方がもっている王様のイメージは、実は本当の王様ではありません。威厳と気品と風格を合わせ持っていなければ王様ではないというあなた方の想像は、正しくありません。子ロバにまたがる姿こそが、あなた方のまことの王なのですと、語りかけているのです。美しさと華やかさにうっとりして、それ以上考えられなくなってしまうわたしたちが聞くべき、とても貴重な神のことばであります。

言葉だとすぐに忘れてしまうわたしたちに、マタイが示してくれたのは、ひとつのイメージでした。子ロバにまたがるイエスさまのイメージでした。イメージするのがとても簡単です。一見貧弱なその出で立ちこそが、王としてのイエスのイメージを正しく心に焼き付けてくれます。ぜひきょう、このみことばからそうしたいのです。

イエスがエルサレムに入城したとき、人が大騒ぎしたようです。聖書には「大勢の群衆」とありますが、こういう場合の大勢ほどあてにならないのは、数字を水増しして報告したがる人間の常です。場所は厳重警戒都市エルサレムなんだから、そんなに大勢の人が騒いだら、警察がだまっちゃいません。

まもなくクリスマスということで、24日のイブには今年もキャロリングを予定しています。クリスマスキャロルを歌いながら町を練り歩くという毎年恒例の行事ですが、ことしはひとつ市ヶ谷駅でやってみようと役員会で気運が盛り上がり、先日千代田警察署に御願いに行きました。ここ市ヶ谷教会は新宿区ですが、市ヶ谷駅は千代田区に属します。そして千代田区というのは皇居を抱えた区、いわば日本のエルサレムです。牧師ひとりで警察にかけあっても無理ですが、今回は行政書士に伴われて行ったので許可が降りるのではと、わたしたちは大いに期待しました。担当警察官はこう言いました、「新宿ならいいかもしれないけれど、ここは千代田区ですからねえ」。ということで、けんもほろろに断られました。日本のエルサレムで騒ぎをおこしてもらいたくないということなのでしょう。

エルサレムでそんなに大勢の群衆が騒いだら、厳しい取り締まりがあったことでしょう。ですからここに書いてあるのは、イエスの取り巻きたちが声を上げて喜び歌う、ちょっとした騒ぎという程度だったのではないでしょうか。

それでも騒いだ本人は、イエスのうちに真の王様を見て取ったのでした。自分の着ていた服を道に敷いて、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と歓声を上げて喜んだのです。

きょうはアドベント第1主日。クリスマスに向けての備えの季節です。この小さな群衆と一緒になって、わたしたちもイエスのうちにまことの王を見出しましょう。政治の世界の権力者ではなく、子ロバにまたがる柔和なイエス様にこそ、真の威厳と気品と風格があることを心に刻みたいのです。そしてこのお方とともに生きることを、目指したいと思います。

アドベントだからこそ、光り輝く美しさの中にではなく、暗くて目立たない社会に目を向け、心を向け、祈りをあわせていきましょう。