説教「知って信じる、信じて知る」
ルカ17:11~19
聖霊降臨後第21主日(2013年10月13日)
日本福音ルーテル市ヶ谷教会礼拝堂(東京都新宿区市谷砂土原町1-1)
牧師 浅野 直樹

10月の半ば、聖霊降臨後第21主日ということで、気がついてみればいつのまにか2013年の終盤になってしまいました。イエスの旅路も、わたしたちのカレンダーに併せて終盤にさしかかっています。それを示す言葉が、11節の「イエスはエルサレムへ上る途中」です。エルサレムへ上るという表現は聖書の中に何度か出てきますが、エルサレムの神殿へ行くこととほぼ同じ意味で読むことができます。

そしてイエスがエルサレムへ行くというのは、もうひとつの重大な意味がそこに加わってきます。それは、イエス最後の日、すなわち神から受けた使命を果たすために十字架にかかるということを意味するのです。十字架はイエスのミッションの終わり、使命の達成、成就であります。

教会の暦も、年末に向けて暦の終わりへと向かっています。それが「イエスはエルサレムへ上る途中」という一言でみえてくるのです。またそのことは、ここのところの福音書の箇所が、ずっとわたしたちに語りかけてきています。慈しみ深くて、思いやり豊かな優しいイエス様の面影は、もはやほとんどなくて、かえって近づきがたささえ感じさせられるような出来事、お話を、わたしたちは続けて聞いているのです。そしてきょうの福音書の出来事は、そういう旅路の途上で起こったのです。

サマリアとガリラヤの間を通り過ぎようとしたときに、10人の重い皮膚病を患っている人とイエスは出会います。「重い皮膚病」となっていますが、ここで使われているギリシャ語はそのまま英語になっており、その英語はらい病、ハンセン病を指し示す言葉となっています。

「重い皮膚病」なんですが、ハンセン病らしき病気であることはきょうのテキストの文脈からも読み取れます。12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」とあります。遠方から立ったままイエスを出迎えたのです。近づけなかったからです。感染するとみられていたからです。近づくことが許されなかったからです。イエスの時代がそうだっただけでなく、近代の日本でもそうでした。子どもの頃、私もそう習いました。けれども今はほとんど感染しないことがわかっています。

彼等は隔離されていたのです。だからイエスに近づかないで遠くのほうから出迎えたのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。彼等は遠くのほうから声を張り上げて懇願しました。イエスはその人たちを見るとひとことこう言います、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。祈るとか、「治れ」と言葉をかけるとかはいっさいなく、ここにあるのは、ただ「祭司に体を見せなさい」でした。そして彼等10人は、イエスの言うとおりにしようと祭司のところに出かけていく途中で、癒されたのです。聖書には「清くなった」というルカの言葉を記しています。ただれた皮膚がきれいになったということでしょう。

わたしたちの疑問は、なぜイエスが「祭司に見せなさい」と言ったのかということではないでしょうか。当時のユダヤ社会では、ユダヤ教の議員、祭司、律法学者といった人たちというのは、一般庶民からしてみれば絶大な権力者でした。主なる神様のことをいちばんよく知っていて、いちばんちゃんとそれを守って、そしていちばん神様に対していちばんきちんとしていた人たちだったのです。いわば神様の代理人。なんでもできる人、なんでもわかっている人なのです。医者であり、弁護士であり、大学の先生なのです。

この場合、祭司はまさしく医者でした。祭司に見せて祭司が皮膚の状態を確認し、「治った」と宣言すれば、それが診断書となり、完治した証拠になったのです。ですからイエスはこのように言ったのです。

まだ皮膚がただれた状態で、つまりまだ治っていないのに、彼等はイエスに声をかけ、「わたしたちを憐れんでください」と願い出るのです。そういうタイミングでイエスは、「祭司に体を見せなさい」と言ったということになります。そして彼等が完治したのです。聖書に書いてあるのは、そのうちの1人が、「先生、治りました」と言って喜び勇んでイエスのところに戻ってきたことだけですので、ほかの9人がどうなったかはわかりません。けれどもおそらく、治ったのでしょう。

そしてここからもう一つの出来事が始まります。イエスのところに戻ってきて報告したのが、サマリア人、たった一人だったことから、イエスが、「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか」と語ったのです。

「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(18節)とあり、この外国人というのはサマリア人のことなので、残りは外国人ではない、すなわちユダヤ人ということになります。

イエスは彼等に「祭司に体を見せなさい」と言って癒されました。だから彼等は祭司のところに行き、皮膚が清くなったことを見せた、はずです。イエスの指示に従ったのです。治ったら私のところに戻ってきて神様を賛美するように、などとイエスは言っていませんから、別に責められるようなことではありません。けれども18節の言葉から、外国人だけがイエスのところに戻ってきて、ユダヤ人がひとりも来なかったのを、イエスが残念がっている様子が伝わってまいります。とはいっても、同胞ユダヤ人がイエスに対して礼を尽くさなかったことに、イエスが腹を立てているわけでも、咎めているのでもありません。無礼だと怒りをぶつけているのでもありません。ただ残念に思っている、といった程度でしょう。

別に無礼な振る舞いをしたわけでもないのに、ちょっとイラッとする。そうしたことはわたしたち日常しょっちゅう経験していると思います。「ひとこと言ってほしかった」とか、「別にいいけど、ただちょっと残念」という思い。喉にささった小魚の骨のように心にひっかかる感情のことです。けれども、そうしたささいな感情の小骨が次々と喉にひっかかってくるようになると、最後には通り過ぎていかなくなってしまうので、気をつけたいものです。

ユダヤ人たちは、自分たちが神に選ばれた民という選民意識をもっていました。そうしたエリート意識があると、その上にあぐらをかいてしまい、神に向き合う姿勢がちょっとだれてしまわないでしょうか。本来なら聖書のことをよく理解し、すべきことをわきまえているはずのユダヤ人でしたが、イエスに対して感謝の意を表しに戻ってきたのは、皮肉にもユダヤ人ではなくサマリア人だった。ユダヤ人が、律法から離れてしまったと非難、軽蔑をするサマリア人だけがやってきたというのは、なんともおもしろいことです。

こうした気の緩み、胡坐をかいた状態というのは、わたしたちもいろんな場面で経験することがあります。最初ははりきって一生懸命がんばるけれど、そのうち慣れて身につくとだんだんと新鮮味がなくなり、お決まりの繰り返しルーティーンとなってしまい、退屈するのです。日常の仕事がそうです。育児がそう、家事がそうです。わたしたちの生活そのものがそうなのです。そしてこれは、信仰についてもあてはまります。聖書のお話、イエスさまのたとえ話を毎年繰り返して聞いていると、「あっ、そのおはなし知ってる」、「良きサマリア人ならもう頭に入ってる」、「そう、イエス様はわたしたちの罪のために十字架にかかったんだよね、またその話か」。そんなふうに聞きがちになります。けれどもそう思った途端、それ以上頭に入らなくなります。心にしみていくことはないでしょう。聖書のことばをお話として知っている、あるいは一般教養の知識として理解していても、イエスのメッセージは、わたしたちに届いてこないのです。「それ、知ってるよ」と思った瞬間に、みことばが消えていくのです。

聖書を読む、みことばに耳を傾けるというのは、新聞や雑誌を読んで情報を入手することとは違います。知識を蓄えることとは根本的に違うのです。聖書に耳を傾ける、それはその言葉を頼りにイエスと出会おうとしているのです。イエスとまみえるわたしたちは、イエスが語る言葉を謙虚に聴き入るのです。そのことばのなかには、まだ私が知り得ないイエス様の深い知恵があるのだと、わきまえ耳を傾けるのです。わたしたちにとって神は「知らない」方であり、イエスは「もっと知りたい方」。知らないお方だからこそ、わたしたちはただ信じるのです。

私は自分が洗礼を受けるとき、「神様のことがもっとよくわかってから洗礼を受けたい」と言ってなかなか受けようとしませんでした。けれども今になって思うことは、神様はどこまでいっても知らないお方ということです。知らないお方だからこそ、信じるという方法があるのです。信じることで、神との距離を少しでも狭めることができるのです。知り尽くすことはあり得ないのですから、その人のことを少しでも知り得たら、それはそれは大きな感動です。サマリア人という異邦人にとって、イエスとの出会い、そしてこのたびの癒しというのは、ことのほか新鮮で感動的だったことでしょう。イエスに感謝せずにはいられなかったのでしょう。ユダヤ人とサマリア人の民族問題はここでは考える必要はありません。たまたまその一人がサマリア人だっただけのことです。同じく病気が治ったほかのユダヤ人たちの場合も、サマリア人ほどの感動がなかったということでしょう。

信仰の上に胡坐をかいてしまっている自分を見る気がします。何度も読んで何度も説教してるから、もうこれ以上なにもないだろうと思い込んでしまうところがあります。胡坐をかく余裕ができると、みことばの感動というのは、ぐっと減ってしまいます。いつもフレッシュな心でみことばを追い求めていきたいのです。パウロはフィリピ書のなかで、このような言葉をわたしたちに残してくれました。3章12節「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。イエス・キリストを知り尽くしているように思えるパウロですが、そうではなかったのです。捕らえようと努めていたのです。パウロにとってイエスはいつも新鮮だったのです。 わたしたちにも、イエスはいつも新鮮であり続けてくださいます。